ブルーノ・シュルツの「春」にどっぷりと

ブルーノ・シュルツは僕にとって特別な作家で、それは何をおいても彼の物語への共鳴とその文章の美しさによる。

娘たちは身動きもせずに坐っていた、
ひとつきりのランプがくすぶっていた、
ミシンの針の下の布地はとうに滑り落ちているのに、
機械だけは虚しくかたかたと鳴り、
窓外の冬の夜の経(たていと)が繰り出してくる
黒々とした星のない布にちいさな孔(あな)を空けつづけた。
『マネキン人形論あるいは創世記第二の書 』より抜粋

こんな言葉が、ミルフィーユみたいに折り重なり、シュルツの悪夢的な世界は構築されている。
そう悪夢的!
彼の小説は、たとえば父親が狂ったりザリガニになったり、生きてるのか死んでるのか曖昧になったり、とにかくよくわからない。シュールで不気味で奇怪な話が展開される。
もう、この時点で好き嫌いが分かれそうな作家だが・・・。

ここで少し、彼の概略を。

ブルーノ・シュルツ(Bruno Schulz)。
1892年ー1942年。ちなみに芥川龍之介と同じ年の生まれ。
ドロホビチ(現ウクライナ領)に生まれたユダヤ人。
ポーランド語で「肉桂色の店」と「砂時計の下のサナトリウム」を出版。画家でもあった。
短編「大鰐通り」は、クエイ兄弟の映画「ストリート・オブ・クロコダイル」(1986)の原作だ。
ゲシュポタによって、路上で射殺された。

彼の生地ドロホビチがどんな街だったのか、本を読むたび想像する。
東欧の、今は寂れているというその街に、シュルツの空想の断片が今でも紛れ混んでいるような気がしてしまう。

彼の「春」という小説は、ずばり春という季節について書かれているが、日本の桜が咲いて鶯が鳴いて、菜の花や月は東に日は西に〜と、はんなりした春ではない。
なんと言えばいいのかな。
僕の祖母の言葉をかりるなら、“バターくさい”春なのだ。
石畳の市街地や、革靴を履いた彫りの深い顔立ちの人々に訪れる春なのだ。
しかし、土地と文化の違いはあっても、シュルツの「春」は春の化身だ。
「春」の読後、ほんとうの春がここに書かれている!と震えた。
僕だけが知っていると思っていた春の秘密に係る部分を、この人は知っていた!と。
(秘密の共有ほど人を親くするものはない。そんな子どもっぽい理由づけもあってシュルツは別格。)
春の気配から始まり、刻々と移ろう微細な春のスケッチ、少女ビアンカ、“ルドルフの切手帳”から展開されるもうひとつの世界の法則、すべてが春という現象を(もしくは幻想を)露わにする。
陽気がよくなるこの季節、ソワソワしながら「春」を開けば、待ちわびる季節と一分の隙もなく合致する。

その「春」を堪能したいが為に、このノートを書いている。

画像2

本題がはじまる前に、横道にそれるが、小学生の頃ノートをプレゼントされた。
ただのノートでなく、ハードカバータイプで僕の好きな青と水色の中間色の表紙に金色の印字、製本された書籍みたいな厚みがあり、ビニールカバーまでついた超本格的なノートだった。
くれたのは親友で、これに自作の話を書けということだった。
でもあまりにもノートが立派過ぎて、それには自分の創作したものなど不釣り合いで、とても書き込めなかった。
代わりに、物語や詩の中から、自分が気に入った文を書き付けることにした。

赤毛のアンのプリンスエドワード島の描写に始まり、谷川俊太郎、宮沢賢治、「詩とメルヘン」に投稿されていた気に入った詩、やがてリルケ、ウンべルト・サバ、サン・テグジュペリ、ル・クレジオ…etc。
青いノートをきっかけに、好きな文や詩を書き写す習慣がついた。

書き写している時、ほんのいっとき自分がその物語や言葉を『所有』している気になる。
書きとったものを、満足気に諳んじるほど読む。さらにいい気分になる。

そこでシュルツだ。
彼の文は、どこをとっても好きだ。
シュルツの言葉に浸りきって酩酊して、身悶えしたい。
ちょうど春だし、「春」を選ぼう。
そんなわけで今から、極度に個人的な趣味によるテキストの抜粋をしつつ、身悶えします。
春だから変な人も出るわね〜と思って頂けたら…。

画像2

ーシュルツ全小説(平凡社:工藤幸雄訳)「春」からの抜き書きー

どの春もこうして始まる。四季のひとつのためには不釣り合いに巨大な、人を狂わせんばかりのあれらの天宮図(ホロスコープ)を出発点として。
1:p177

いきなりクライマックス感・・・。

星の荒れ野の悲哀は街の上にのしかかり、
夜の裾には、街灯がひとつひとつ結び目をこさえて
無造作に括り上げた光線の束を織り込んでいた。
2:179

街灯が結び目・・・街灯×結び目・・・!
に続く、括り上げた光線。
訳者もすごいよね。これ、いいよね。

(略)静寂と思考の流れのなかを、にわかにバイオリンだけが身を起こし、
ついさっきまであれほど甘え泣きして頼りなかったのが、
年に似合わず成長して大人っぽくなり、
今では雄弁となり、浅黒い体とくびれた腰を持ち、
自分の成人ぶりを自覚して、しばらく繰り延べされていた一身上の問題を取り上げ、
ひとたびは負けた審理を冷淡な星の法廷で更に進行させるのだ、
星々のあいだでは、楽器のS字形や輪郭が、とぎれとぎれの音節記号が、
また未完成の竪琴や白鳥が、
透かし刷りでいくつも書かれていたが、
見よう見まねの痴(たわ)けた解説にすぎない。
2:p180

長い。一文が長いっス。
何が書かれているのかというと、満天の星空の下、レストランの庭で楽師たちがやる気なさそうだよ、バイオリンだけ鳴ったよ、というシーン。
星の方がうるさいのです。

彼らの楽器(略)は、音騒がしい星の驟雨に声もなく打たれていた。

のです。
楽師(楽器)と星空の応酬。
”未完成の竪琴や白鳥が、透かし刷りでいくつも書かれていた”という表現に星座のあるべき形を見ます。
少年と父親の夜の外食であり、野外ステージには楽師が揃っているのに、星はまばゆいほどなのに、どこか虚ろな気配。いい、それがいい。

一瞬、停止させられた夜が、もういちど動き出し、
そして月が中天に達するためには、
だから、
ごぼごぼと湧き出す泉の夜、
肌の裏側の細かな震えでいっぱいの夜のなかにかしましい蛙の声を補足し、
思い探らねばならなかった、
すると月はその白色を杯から杯へ移し替え移し替えするかのようにいよいよ白さを加え、ますます高く(略)
2:p183


やっぱり一文が長い。
はい、月がのぼりましたね。
最初はすみれ色で、地面を銀に染める月が、どんどん白く照ります。
雨靴の匂いや湿ったローム土の匂いが満ちます。
そして、父とレストランで会った写真技師と郊外で写真を撮ります。
でも少年は眠いので、

あの空の異変、燦然と光る天宮図を彼が写し撮るあいだ、
私は頭を光に漂うに任せながらうっとりと外套の上に横たわったまま、
夢を永つづきさせようと物憂く露出を繰り返した。
2:p184

はあ、いい。こっちが夢の中ですよ。


小説は序の口。こんな調子でまだ、続くと思います。



*挿画はシュルツの作。
『出会い』油彩
『けだものたち』ガラス陰画



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