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【超考察】『正欲』朝井リョウ  ありがたき多様性とは?

うるせえ黙れ、と。
朝井リョウ『正欲』まえがき より

多様性。ダイバーシティ。自分らしさ。

この類の言葉を新時代のキーワードとして
堂々と掲げる人々への懐疑心を、
朝井リョウは代弁してくれている。

まえがきを読んだ段階で、そう思いました。
だから、最後までページをめくり続けてみようと思いました。

朝井リョウ『正欲』

映画化も決定している(2023年公開予定、主演:稲垣吾郎、新垣結衣)
朝井リョウの作家生活10周年記念作品、
『正欲』。

これまで
朝井リョウ作品を順を追って読んできたわけではありませんが、
読み進めるにつれて
「あ、言語化の天才ってこうゆうことか」
と再三思わされた作品です。

ねっとりとした言葉で、淡々と殴られている感じ。

はじめは、比喩がまわりくどすぎるように思っていましたが、
その比喩がだんだんとキャラクターたちの視線の違いを
ありありと色づける役割になっていて。
気づけば、ページをめくる手が止まらなくなっていました。


【考察】特殊性癖者が意味づけるもの

※以下ネタバレあり

本作品は、‟水フェチの特殊性癖者”、
つまり水に性的興奮を覚える人物たちが
周囲の人間たちに理解されず、児童ポルノ事件に巻き込まれるまでを描いた群集劇です。

大衆にとっては単なる生活資源に過ぎない水。
蛇口レバーをひねると流れ出し、障害があると四方に飛び散り、
流動性まかせにうねって、やがて水平におさまる。
水の出口に指をかざせば予想しえない方向に吹き出し、
指と出口が近づけば近づくほど、噴射の勢いを増す。

そういう、予測不可能な液体の動きが彼らの性的欲求を満たす
という設定。
水フェチとは、特殊性癖者であるという定義づけのもと、
彼らを取り巻く偽善的行為が仇となってゆくストーリーです。

私は本作を読んで、
朝井リョウさんは単にマイノリティの代表格として
この水フェチを取り上げたわけでは無い、と思っています。

というのも、

以前、オードリーのオールナイトニッポンに
朝井リョウさんがゲスト出演していた時。
下ネタトークの最中に

エロいことって、ずばり言語化するとアンコントロールな部分だと思う。
こうやると、こういう反応するんだ、って。相手が自分のことをコントロールできなくなっている状態を見ることが僕は好きで(笑)。」

とおっしゃってたのを思い出したんです。

オードリーさんと朝井リョウさんの絡みいつも面白いので是非に。

本作中で、水フェチの人物が
水を出しっぱなしにして、自分の理想にかなう形になるように水をいじる時の描写がまさにこれだと、思うんです。

水の噴き出し口をいじって、
自分の好みになるいじり方を探って、
従順に形を変えてゆくアンコントロールな水に、
自分の欲求を満たしてゆく。

朝井リョウさんは、

こういうアンコントロールな景色に、君も興奮するんでしょう?
エロースの原理は一緒でしょう?
この人たちは、その興奮対象が水ってだけでしょう?

いまマジョリティ側に立って安心している君も
彼らに置き換わり得るんじゃないの?

という問いを、
水フェチという特殊性癖者にマイノリティの申し子としての役目を負わせることによって投げかけている、
と解釈できるのではないでしょうか。

その証に、
マジョリティ側の人物として描かれている寺井啓喜(検察官)も
妻の涙に性的興奮を覚えており、
しかしそれを本人は特殊性癖との自認もなければ、正当な指向であると思い込んでいます。
そしてストーリーの途中、
涙で性的興奮を覚えることが社会の規制対象になるという出来事に直面してはじめて、
自分の特異性に気付きます。

マイノリティとして分類されてマジョリティから区別される人々も、
マジョリティとして分類されてデフォルトな幸せを歩むとされる人々も、
その根底は何ら変わらない。
変わらないことはなくとも、生物的に感じる興奮の構造は同じ。

ただ、視覚的に、価値観的に、「形の違い」があるだけ。
同性、水、児童、マミフィケーション、
どの形であれど、感じる感情や興奮はみんな一緒。

だけどその「形の違い」が、当事者にとっては致命的で。
命取りでしかなくて。
「形の違い」をきっかけに当事者たちは区別対象になって、
‟普通”には属せなくなる。
生き殺しともいえる羞恥心の中でしか生きられなくなる。

自分にとっては、自分が普通で、気持ち悪いのに。

子孫を残す、繁殖、という生物的な営みがあるせいで
いつしか世界の最小単位は恋愛感情でつながっている異性同士の二人組であるように見えてしまうんです。

本書を読んでいくと、

その最小単位に違和感を覚えるまでもない人々は、
直接傷をつけ、
自らの手で殺さずとも、
その最小単位で居るだけで
ピュアな異性愛者でない人を無用化している、という構図が見えてきます。

社会のデフォルトに該当するならば、
悪意なんて無くとも、存在しているだけで
ピュアな異性愛者でない人々のすべての行為が
人間的な感動にはあたらないものへと追いやっている
という構図があるのです。

「存在しているだけ同士」のはずなのに。


皮肉にも、口コミも然り

『正欲』の口コミをみていると、以下のような批判がよく目につきます。

「誰だって精神的な傷を負いながら生きている。人に言えないことのひとつやふたつは皆あるだろう。」
「被害者意識が強い。」

そりゃそうでしょう。

彼らからすれば、
自分には何の手も下されていないのに、自分が原則的に無意味化されながら生きて、
生きることで自己の無用性をまざまざと分からせられ、
自分を自分で殺すところまで、自然の摂理的に追い詰められるのですから。

思うに、
この無限の、カオスの、
ありがたき多様性時代を打破する施策は、おそらく存在しません。

かなり冷徹なことを言っていますが、
存在しているだけで、その「形の違い」を武器に殺し合うカオスを生きていくしかないのです。

話し合って認め合うことで、救える人ももちろんいるでしょう。
それがかえって「形の違い」を顕著化させて、殺される人ももちろんいるでしょう。

あらゆる施策の先々に待ち受けるは、カオスな社会ではないでしょうか。

ごめんなさい。

こんなこと、
せっかくサイレントマジョリティを掘り出して、
勇気を振り絞って声をあげている人がいるのに、
それをも無に帰するような、
単なる苦言じゃないかとお思いになる方もいらっしゃるかと思います。


そんな方々からすれば、こんな考察など、この一言に尽きるでしょう。


うるせえ黙れ、と。


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