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【日露関係史12】ソ連の対日参戦

こんにちは、ニコライです。今回は【日露関係史】第12回目です。

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大戦期、日本とソ連は互いの同盟国と戦争をしながら、日ソ中立条約によって直接戦火を交えないという奇妙な関係にありました。米国の圧倒的物量に圧されて劣勢となった日本は、連合国の中で唯一国交のあったソ連に希望を託し、ソ連を仲介とした和平を試みます。しかし、ドイツへの勝利が目に見えてくると、ソ連は死に体の日本に対して開戦を決定しました。今回は、ソ連の対日参戦に至る経緯と、1945年8月に始まった日ソ戦争について見ていきたいと思います。


1.対日参戦の約束

独ソ戦の勃発とともに、米英中の連合国へと加わることになったソ連に対し、米国日本に対しても攻撃を加えるように要求します。ドイツ軍に自国領奥深くまで進撃されていたソ連は、日本まで相手にする余裕がなく、初めはこの提案を拒否していました。しかし、1943年からドイツに対し攻勢に転じると、対日戦を視野に入れるようになり、スターリンは同年10月のテヘラン会談において、対日参戦を約束します。

テヘラン会談での三巨頭
左からヨシフ・スターリン、フランクリン・ルーズヴェルト、ウィンストン・チャーチル。
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1945年2月のヤルタ会談で、スターリンはルーズヴェル米大統領に対し、対日参戦の条件を提示しました。戦争を仕掛けてきたドイツと異なり、ソ連に脅威を与えていない日本と戦争をはじめるには、国民を納得させるための報償が必要だというのです。そして、スターリンの提示した条件とは、樺太南部の返還千島列島の引き渡し大連港の利用優先権旅順租借中東鉄道と満州鉄道の中ソ共同経営であり、これはすなわち、日露戦争によってロシア帝国から日本が獲得した利権を全て取り戻すことを意味しました。

ヤルタ協定
ソ連の対日参戦と南樺太・千島の引き渡しを明記したこの協定書は極秘とされ、米国では大統領と会談に臨席した通訳ボーレン、ハリマン駐ソ大使、英国ではチャーチル意外に知る者はおらず、1946年2月まで公開されなかった。
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2月11日に調印されたヤルタ協定では、これらの条件が全て認められました。日露関係史に疎いルーズヴェルトは、これらは日本がロシアから奪い取ったものであるというスターリンの話を鵜呑みにしたのです。ルーズヴェルトがソ連の参戦にこだわった理由は、それが対日戦に必要だったからではありません。当時、すでに米国参謀本部は単独で日本軍に勝利できると見通しを立てていましたが、来る日本本土決戦において、米軍の死傷者をできる限り少なくするために、ソ連が参戦することが望ましいと考えたのです。

ジョージ・ブレイクスリー(1871‐1954)
米国クラーク大学の教授で、極東の専門家。ヤルタ会談の前夜、ルーズヴェルトに北方四島に関する歴史的経緯を説明した資料を提出したが、結局ルーズヴェルトが目を通すことはなかった。もしこの資料をルーズヴェルトが見ていたら、歴史は変わっていたかもしれない。
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こうして連合国の間で、密かにソ連の対日参戦が約束されました。

2.ソ連への和平仲介工作

一方、対英米戦争において劣勢に立たされるようになった日本は、唯一公式の外交チャンネルが残っていたソ連に和平を仲介を依頼する工作を行いました。

最初の試みは、東條英機内閣及び小磯国昭内閣で外相を務めた重光葵によって行われました。重光は1944年7月から9月にかけて、佐藤尚武駐ソ大使への秘密公電の中で、対ソ交渉を準備するように促しています。日本政府内ではかつて駐ソ大使を務めた広田弘毅元首相特使として派遣する案も出ていましたが、結局ソ連側に断れ重光は交渉を断念します。

重光葵(1888‐1957)
東條・小磯・東久邇宮内閣の外相。長年外交官としてのキャリアを積み、日本の戦時外交において大きな役割を果たした。1937‐38年に駐ソ公使を務め、張鼓峰事件などに関与。また、戦後は鳩山一郎内閣において対ソ外交を担うことになる。
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次に交渉を試みたのは、1945年4月に成立した鈴木貫太郎内閣の外相東郷茂徳です。東郷はまず、6月3日に広田とマリク駐日大使を会談させ、満州国の中立化と樺太・カムチャツカ周辺における漁業権の放棄といった譲歩案によって、ソ連の協力を取り付けようとします。しかし、これらの譲歩はソ連側の想定よりも小さかったこともあり、交渉は失敗に終わります。次に、佐藤大使をモロトフ外相と会談させて同様の譲歩案を突きつけますが、こちらも不調に終わります。

東郷茂徳(1882‐1950)
東條・鈴木内閣の外相。1938‐40年に駐ソ大使を務め、不可侵条約を締結するためにソ連側と交渉していた経験もあり、ソ連の仲介による和平を実現しようと試みた。
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これと並行して、昭和天皇のメッセージを親書として送るとともに、特使として近衛文麿元首相を派遣する案が、木戸幸一内大臣によって上奏され、実行に移されます。7月13日、佐藤大使は、スターリンおよびモロトフがポツダムへと出発する直前であったため外相代理ロゾフスキー親書を渡し特使派遣を申し入れました。しかし、後日ロゾフスキーから来た返答は、親書には具体的な提案がなく特使派遣は任務が不明なことから回答しようがない、というものでした。仲介工作はまたしても失敗に終わったのです。

ポツダム会談
1945年7月17日‐8月2日に行われた米英ソの三首脳会談。大戦後の戦後処理について話し合われるとともに、日本に対する無条件降伏勧告である「ポツダム宣言」がまとめられた。
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3.条約破りの宣戦布告

その後も近衛特使派遣について交渉を続けていた佐藤は、8月7日、モロトフから会談を申し込まれます。翌日、特使派遣について回答を得られると期待し、クレムリンへと向かった佐藤は、そこで宣戦布告を告げられます。すでに4月5日に「不延長」の通告は受けていたものの、日ソ中立条約はまだ1年間有効であったため、まさに条約破りの宣戦布告でした。

満ソ国境を超えるソ連軍
ポツダム会談において米国の原爆開発を知らされたスターリンは、原爆投下によって日本が早期降伏すること、米国主導で戦後処理が行われることを恐れ、対日参戦を早めるように指示した。
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8月9日午前零時、ソ連軍は、西はモンゴル国境、北はブラゴヴェシチェンスク及びハバロフスク、東は沿海州の三方面から満州国に侵攻しました。関東軍司令部は全面的反撃を命令しますが、兵員関東軍120万人に対してソ連軍180万人戦車1,200両に対して5,200両戦闘機1,900機に対して5,200機と、日本側は圧倒的に不利な状況にありました。また、ヨーロッパ戦線から転戦した古参兵が多いソ連軍に対し、南方へ送られた兵員不足を補うために急きょ動員されたばかりの実戦経験が乏しい兵士が多い関東軍は、質の面でもソ連軍を下回っており、前線の部隊はとても持ちこたえることができませんでした。

T-34
ソ連軍の主力戦車。装甲が65㎜と極めて厚く、関東軍の旧式の銃火器では全く歯が立たなかった。唯一底部の脱出口だけが装甲が薄く、爆弾を抱いた兵士が戦車の下に潜り込み、諸共爆破する「決死隊」で対抗した。
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8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、終戦の詔勅は満州にも伝えられました。これを受け、8月19日、満ソ国境のハンカ湖付近のジャリコーヴォで、秦彦三郎総参謀長とワシレフスキー極東ソ連軍総司令官が会談し、停戦と武装解除が即日実施されることになります。しかし、武装解除を受け入れる部隊がいた一方、第107師団のように降伏の呼びかけを「謀略」と勘繰り、戦闘を続けた部隊もありました。停戦が実現したのはようやく8月29日のことで、満州全域がソ連軍によって制圧されました。

ソ連軍の侵攻経路
ソ連軍は満州国とともに、朝鮮北部および大連・旅順へと侵攻し、大陸における日本の支配領域のほぼ全てを占領した。
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4.ソ連軍の蛮行

日ソ戦争においては、ソ連軍による民間人に対する様々な蛮行が行われました。ソ連軍侵攻の報せを受けた満州開拓民たちは、急いで列車に乗って南方へと避難を開始しましたが、ソ連軍は列車や鉄道に対し爆撃を加え、多くの難民や満鉄職員が死傷しました。葛根廟事件佐渡開拓団跡事件など、1000~2000人の避難民がソ連軍によって虐殺される事件や、ソ連軍に追い込まれた500人近い開拓団員が集団自決を図った麻山事件なども発生しました。

葛根廟
葛根廟の駅から列車で避難しようとした人々に対し、ソ連軍は容赦ない攻撃を加えた。自衛のために武装していた避難民もいたため、日本軍の残兵と誤認したのではないかともいわれる。
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ソ連軍の蛮行は戦場だけでなく、占領した都市部においても発生しました。ソ連兵は住民を襲ってお金や時計、万年筆などの私物を奪ったり、食料品や工業施設、自動車や家具などを組織的に略奪しました。さらに、女性に対するレイプ行為も多発し、女性たちは髪を剃って男装をし、なるべく屋内にいてソ連兵から隠れて過ごさなければなりませんでした。当時は貞操を重んじる価値観が強かったこともあり、レイプされた後に耐え切れず自殺する人も多かったようです。

ソ連軍による蛮行が激しかった理由としては、①建国以来、人権・人命を軽視する傾向が強かったこと、②ソ連がジュネーブ条約に加盟しておらず、非戦闘員や捕虜の扱いについて将兵を教育していなかったことがあげられます。5月のベルリン占領の際も、ソ連兵はドイツ人に対してレイプや略奪に及んでおり、国際的非難をかわすために、ソ連軍司令部は占領地での狼藉行為を禁止していましたが、取締は不徹底でした。

旅順を占領したソ連兵たち
ソ連兵が首から下げている小銃は通称「マンドリン」と呼ばれ、ソ連兵たちはこのマンドリンで日本人を(時には中国人も)脅して暴行に及んだ。
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これに加え、関東軍の方針も民間人への被害拡大に大きく関わっていました。関東軍は、ソ連から中立条約破棄通告を受けた時点で、日ソが開戦した場合は満州国の大半を放棄することを決定しており、参謀本部司令部と国境地帯の部隊を南満州へと後退させていました。そして、実際に戦争がはじまると、軍人・官吏・満鉄職員を優先的に避難させ、それ以外の居留民や末端の兵士たちを見捨てたのです。また、一緒にいれば安全だと思い関東軍と合流した避難民たちが、自決を強制されることも少なくありませんでした。

後宮淳(1884‐1973)
関東軍第三方面軍司令官。南満州への後退方針に対し、「居留民を放棄するのか」と異議を唱えたが、関東軍総司令部から必死に説得され、「涙を呑んで総軍の意図に従う」と表明した。
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5.南樺太と千島の占領

ソ連軍は満州占領とともに、南樺太と千島列島の占領にも乗り出しました。8月11日、ソ連軍はまず樺太の国境地帯の古屯へと侵攻しますが、日本軍の頑強な抵抗に遭いました。ようやく18日になって日本軍が降伏したため、ソ連軍は南下を開始するとともに、20日に沿海州から来た部隊が西側の真岡や本斗に上陸して占領しました。その後、樺太南部へ急速に展開し、25日には南部の豊原や大泊を占領しました。

真岡に上陸したソ連軍
ソ連軍侵攻の報せを受け、8万人の民間人が真岡港から緊急疎開したが、疎開者を乗せた船のうち3隻が北海道留萌沖でソ連軍の潜水艦からの攻撃を受け、1500人以上の死者を出す惨事となった。
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千島列島への侵攻は、8月18日に始まりました。大本営からの命令により停戦完了は「18日16時」とされ、北千島守備隊も現地でその時を待っていました。ところが、18日の未明、ソ連軍が千島最北端の占守島に向けて無警告での砲撃を開始し、さらに同島への上陸を強行しようとしたため、日本軍は自衛のために迎撃に出ました。さらに隣のパラムシル島から援軍が駆け付けたこともあり、3倍の戦力を誇る日本軍はソ連軍を海岸に追い詰めます。しかし、「18日16時」が訪れたため、戦闘を中止しました。

占守島の日本軍
満州の関東軍と違い、占守島の戦いでは北千島守備隊の方がソ連軍に優勢であり、仮に停戦命令が出されていなかったら、日本側の勝利に終わっていたと考えられる。
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その後、19日に停戦交渉が始まり、24日までに2万3000人の北千島守備隊が武装解除されました。ソ連軍は25日から31日にかけて中部千島を無抵抗で占領、さらに樺太から来た別動隊が26日から9月1日にかけて択捉、国後、色丹の三島を占領しました。しかし、日本が連合国との降伏文書に調印した9月2日に、ソ連軍最高司令部は歯舞群島も占領することを決定し、3日から5日にかけて全島を占領しました。

戦艦ミズーリ艦上で降伏文書に調印する重光全権
なお、後にソ連で刊行されたすべての出版物では、降伏文書調印の前日である9月1日に、歯舞群島までが占領されたことになっていた。
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こうして条約破りに始まった日ソ戦争は、降伏文書への調印さえも無視され、ソ連の都合によってようやく停戦したのでした。

6.まとめ

8月9日に始まり、9月5日に終わった日ソ戦争は、条約違反の宣戦布告、略奪や暴力行為といった民間人への被害、さらに降伏文書調印を無視した占領活動の継続など、日ソ両国に大きな禍根を残しました。こうした出来事が日本人の対ソ感情を著しく悪化させたのは間違いありません。

しかし、責められるべきはソ連だけではありません。そもそも条約を破ってまでソ連に参戦するよう要求したのは米国であり、また南樺太や千島の占領に関しても米国は認めています。米国からの誘いがなければ日ソ戦争はなかったとまではいいませんが、その大きな原因を作ったのは間違いありません。

日ソ戦争における被害拡大には、関東軍司令部による棄民・棄兵方針が大きく関わっていました。後に帰国を果たした人々の中には、関東軍に見捨てられたこと、自決を強制されたことに対する怒りや無念を口にした人も少なくありません。彼らはソ連軍と関東軍双方の被害者だといえるでしょう。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

日ソ戦争については、こちら

明治維新から太平洋戦争までの日露関係史については、こちら

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