見出し画像

【日露関係史1】帝政ロシアと日本人漂流民

こんにちは、ニコライです。今回から新連載【日露関係史】をスタートします。

普段意識することはあまりないかもしれませんが、ロシアは中国や韓国と同じ日本の隣国であり、領土間の距離でいえば(どこまでをロシア領・日本領とするかという問題もありますが)他の二国よりも近い関係にあります。隣国である以上、日本はロシアと切っても切れない関係にあり、また、皆さんご存じの通り、現在もなお両国は領土問題を抱えているわけですから、日露関係について考えることは非常に大切なことだと思います。というわけで、今回の連載では、江戸時代から現代にいたる日露関係の歴史を見ていきたいと思います。

第1回目となる今回は、漂流民を通した日露交流についてとりあげます。太平の世が訪れた江戸時代、全国市場の形成によって内需が拡大した日本では海上輸送による商品の往来が急増しました。しかし、幕府は外洋航海に適した大型帆船の建造を禁止していたことから、同時に海難事故も増加しました。そして、海上で漂流した船は北太平洋へと流されていき、当時ロシア人が進出していた千島列島やカムチャツカ半島、アリューシャン列島にたどり着くことになります。今回は、漂流民によってもたらされた日本人とロシア人の最初の接触について見ていきたいと思います。


1.最初の日本人漂流民

イヴァン雷帝の時代以降、ロシアは重要な交易品である「毛皮」を求めて東方へと領土を拡大させていき、16世紀末にはウラル山脈を越え東シベリアへと進出、17世紀末にはユーラシア大陸北東に位置するカムチャツカ半島へと到達しました。1697年、コサック五十人長ウラジーミル・アトラソフは、当地にて現地住民に囚われていた男を保護します。アトラソフは、この男を「インド帝国支配下のウザカ国」「デンベイ」であると報告し、1701年にモスクワへと連行しました。

ロシアの領土拡大
CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=22400356

この「デンベイ」こそ、記録に残っている最初の日本人漂流民である市川伝兵衛です。元禄8年(1695年)、淡路屋又兵衛の船荷監督役だった伝兵衛は、大坂から江戸へ向かう途中に北西の季節風によって船が難破し、半年間漂流した後にカムチャツカ半島南部に辿りつき、そこで現地住民に襲撃され、捕らえられていたのでした。アトラソフは「江戸」を「インド」、「大坂」を「ウザカ」と聞き間違えて報告しており、モスクワでの尋問の結果、彼が日本人であることが判明しました。

ウラジーミル・アトラソフ(1661 or 1664-1771)
「カムチャツカの征服者」として知られるようになるコサック五十人長。ロシアのシベリア・北太平洋への進出は、支配を嫌い、権力の空白地を求めるコサックたちによって担われた。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15108028

時のロシア皇帝ピョートル1世は伝兵衛に謁見した後、彼にロシア語を教えるとともに、日本語教師とするように指示を出しました。こうして伝兵衛はサンクト・ペテルブルクのマトヴェイ・ガガーリン公爵邸に引き取られ、そこで数名のロシア人生徒を相手に日本語を教えることになりました。彼は日本語教師を務めた後、日本へ送還してもらう約束をしていましたが、結局これはかなえられず、正教徒へと改宗して最期までロシアで過ごしたようです。

ピョートル1世(1672-1725)
伝兵衛がもたらした日本には金銀が豊富にあるという情報に、ピョートルは興味を抱き、カムチャツカと千島列島探検を推進した。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=32937

2.ロシア初の日本語学校

伝兵衛に続き、1710年にやはりカムチャツカで、コサックのイヴァン・コズィレフスキーによってサニマという日本人が保護され、ペテルブルクへと送られました。サニマは「三右衛門」のことで、紀州あるいは津軽・南部の出身ではないかと推測されています。詳しいことはわかっていませんが、サニマは伝兵衛の助手として日本語を教えていたという話が伝わっています。

シェスタコフの地図(1725年)
コズィレフスキーはロシア人として初めて千島列島に渡り、調査を行った。画像は同じくコサックのシェスタコフが、コズィレフスキーの情報をもとに作製した地図。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=126745495

伝兵衛やサニマによって始められたロシアにおける日本語教育ですが、1736年に大きな転換を迎えます。この役割を担ったのが、ソウザゴンザという二人の日本人です。二人は薩摩藩の出身で、享保13年(1728年)、大坂に向かう商船若潮丸に乗船していたところ嵐に合い遭難し、半年間の漂流を経て、カムチャツカに漂着します。そこで二人はヤクーツクから赴任した代官ノヴゴロドフによって保護され、その後ペテルブルクへと送られてピョートル1世の姪にあたる女帝アンナに謁見しました。

女帝アンナ(1693-1740)
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=121749

二人は、1735年にロシア語を学ぶためにアレクサンドル・ネフスキー修道院へと送られ、その翌年にはペテルブルク科学アカデミー付属日本語学校の教師に任命されます。これはロシア初の日本語学校であり、ソウザと学長アンドレイ・ボグダーノフによって1万2000語からなる世界最初の露日辞典をはじめとする6冊の日本語参考書が作成されました。しかし、ソウザは日本語教師となったのと同年に、ゴンザもその3年後に亡くなったため、開校したばかりの日本語学校ではしばらく日本人教師が不在となってしまいました。

ペテルブルク科学アカデミー(画像右)
ロシアの科学研究の中心地として、ピョートル1世によって設立された研究機関。現在のロシア科学アカデミー。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6834636

3.多賀丸漂流民とイルクーツク日本語学校

延享元年(1744年)11月、船主である竹内徳兵衛を船頭とする多賀丸が南部佐井村を出港して江戸へと向かう途中、嵐で遭難し、翌年5月に北千島オンネコタン島に漂着しました。上陸後まもなく徳兵衛は死亡し、生き残った乗組員は同島に毛皮税を徴収しにやってきたロシア人役人に発見され、カムチャツカへ連行されました。その後、多賀丸漂流民は二班にわけられ、5名がソウザとゴンザの跡を埋めるためにペテルブルクの日本語学校へ送られ、残りの4名はヤクーツクに残されました。

千島列島
ロシア人は1711年に占守島へ渡って以降、千島列島を南下し、アイヌを支配下に置いていった。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=105293908

1747年、ヤクーツクにも日本語学校が開設されますが、その後1753年にはペテルブルクの日本語学校とともにイルクーツクへと移転されます。イルクーツクは清国との交易中継所として発展した都市で、当時の東シベリア行政・経済の中心地でした。新しい日本語学校は国有船・商用船の下士官や測量技師を育成する航海学校の付属校とされ、この時点で日本語学校はロシアの北太平洋探検調査のための戦略に組み込まれました。

18世紀のイルクーツク
イルクーツクは、イルクート川沿いに建造された要塞を起源とし、東シベリア行政・経済の中心地に発展した。その町の美しさから「シベリアのパリ」とも呼ばれる。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9952372

イルクーツク日本語学校は日本人教師7名生徒は15名を超える規模となり、『レキシコン』と呼ばれる露日辞典の編集が行われました。しかし、生徒はカムチャツカに派遣されたり、死亡したりして数を減らし、日本人教師も1783年には3名、1786年には全員が死亡してしまいました。その後は、ロシア人生徒が教鞭をとり、1816年に閉校となるまで日本語通訳を養成し続けました。

ヴィトゥス・ベーリング(1681-1741)
デンマーク人で、ロシア海軍一等大尉。二度にわたる北太平洋探検の隊長に選ばれ、ユーラシア大陸とアメリカ大陸とが陸続きでないことを発見した。イルクーツク航海学校の開校は、彼のアイディアによる。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=264216

4.大黒屋光太夫の遭難

ロシアへの漂流民の中でもとりわけ有名なのが、井上靖が小説『おろしや国酔夢譚』で題材とした大黒屋光太夫でしょう。光太夫は天明2年(1782年)に伊勢国安芸郡白子蒲を商船神昌丸に乗って出航しますが、駿河灘で激しい北西風と大波にもまれて遭難します。その後7か月もの漂流を経て、アリューシャン列島アムチトカ島へと漂着し、そこでロシア人商人に保護されました。光太夫ら漂流民は4年間をアムチトカで過ごしますが、島は窮乏状態にあり、1792年にやってきた連絡船が座礁したのを契機にロシア人と協力して島を脱出しました。

アリューシャン列島
ロシア人は1741年にアラスカ及びアリューシャン列島に到達した。北太平洋の毛皮獣が枯渇するにつれ、ロシアの毛皮事業の拠点はアリューシャン列島を東へ移動していった。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=81338932

カムチャツカに到着した光太夫らは、帰国のための嘆願書を提出するためにさらにイルクーツクへと移動しました。光太夫らは博物学者キリル・ラクスマンを頼り、三度嘆願書を提出しますが、日本語教師を欲しがったイルクーツク総督は「ロシアで仕官せよ」といずれの嘆願も断ります。落胆する光太夫らでしたが、ラクスマンの勧めで皇帝に直訴することになり、1791年1月、彼とともにイルクーツクを出発し、同年2月29日にペテルブルクへと到着しました。

キリル・ラクスマン(1737-1796)
フィンランド出身のガラス工場経営者にして、動植物学者。長崎オランダ商館医師を務めたスウェーデン人ツュンベリーの著作を読み、以前から日本に関心を抱いていた。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=33973873

同年6月28日、光太夫は皇帝エカテリーナ二世に謁見を許され、漂流の顛末を説明し、帰国の願いを訴えました。光太夫に同情したエカテリーナは、イルクーツク総督イヴァン・ピーリに遣日使節のを派遣する勅命を発します。こうして正教徒に改宗していた2名を残し、光太夫、小市、磯吉の3名が日本へ帰国することになりました。

エカテリーナ2世(1729-1796)
光太夫が謁見した日は、ちょうどエカテリーナの即位記念日であった。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=257343

5.遣日使節の来航

光太夫らを送還する遣日使節には、キリルの次男であるアダム・ラクスマンが選ばれました。使節の派遣は日本人漂流民の送還を第一の目的としていましたが、この機会に日本と通商関係を樹立しようとも考えていました。ラクスマンと光太夫らを乗せたエカテリーナ号は、寛政4年(1792年)8月にオホーツクを出港し、9月5日に根室に入港しました。

エカテリーナ号
エカテリーナ号にはラクスマンと光太夫ら漂流民3名に加え、ロシア人39名が乗船し、モスクワから購入した日本との交易品と日本側への贈り物が多数積載されていた。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=92461613

根室の松前藩士はロシア船来航をただちに藩に報告し、その報せは江戸の老中松平定信のもとにまで届けられました。根室で越冬したラクスマンと光太夫らは翌年海路で松前まで移動し、6月21日に松前藩浜屋敷にて日露会談が行われました。会談は3回行われ、ラクスマンは通交通商条約締結の希望を伝えましたが、日本側は従来通交のない国との交易はできないとし、以後の交渉は長崎で行うようにと来航許可証である信牌を渡しました。ロシア側は光太夫ら2人(小市は根室で越冬中に死亡)を日本側に引き渡し、6月30日に松前を出港し、帰路に就きました。

宝暦年間の松前の様子
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=28675648

光太夫らは江戸で取調べを受けた後、江戸番町の薬園に移され、ここで一生を過ごすことになります。井上靖は光太夫が暗い幽囚生活を過ごしたように書いていますが、許可を得れば故郷へ戻れたり、新しい妻を娶ることができるなど、実際にはかなり自由な生活だったようです。また、初のヨーロッパからの帰還者に興味を抱いた蘭学者たちと交流してロシアの様子を伝えており、光太夫の証言は、蘭方奥医師で当代一の海外通として知られた桂川甫周によって『北槎聞略』としてまとめられました。

洋装の光太夫と磯吉
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=129607714

6.まとめ

開国以前に日本人がロシアへと漂流していった事例は、今回紹介したものを含め13件になります。光太夫以前の漂流民たちは日本に戻ることができませんでしたが、彼らのもたらす日本の情報はロシア人を極東へと惹きつけるきっかけとなり、また、ロシアにおける日本語教育の礎を築きました。そして、漠然とした極東への想いは、日本との通商という形で具体化し、遣日使節の派遣へ結びついたのです。日露関係の歴史は、まさに漂流民たちによって基礎を築かれたと言えます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

ロシア帝国時代の日露交流全般については、こちら

ロシアへと渡った日本人漂流民については、こちら

ロシアのシベリア・北太平洋への進出については、こちら

千島列島をめぐる日露の歴史については、こちら

◆◆◆◆◆
次回


この記事が参加している募集

世界史がすき

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?