見出し画像

さよならの季節に思うこと

ここのところ、親しい人との別れが続いている。

毎年この季節は何かしらの別れがあるものだが、今年も何人かの人とお別れする。
バイト先の同期、留学生の友達、そして語学教室のメンバーだ。

バイト先の同期は、同い年で、バイトの時はほとんどいつも一緒にシフトに入った。ちょっとした隙を見つけてはお喋りをして、けらけら笑っていた。真面目で、優しくて、仕事ができて、気が利いて、でもちょっと抜けている。何か話しかけたら必ず面白い返事が返ってくる彼女のおかげで、毎回楽しくバイトできた。

その内一緒に飲みにいくようになって、楽しいことだけじゃなく、しんどいことやつらいことも共有するようになった。
私が就活を始めたばかりの時、何から手を付けたらいいかわからなくてわたわたしていた時も、相談に乗ってくれた。友達の少ない私にとって、就活の相談ができる貴重な友達の1人でもある。

留学生の友達はセネガルから来た。彼女に初めて会ったのはもう2年半前になる。私は留学生が日本で生活を始める時の支援をする仕事を頼まれていて、一緒に役所に行って手続きをしたり、その辺を案内したりした。

彼女にはよく英語やフランス語の勉強に付き合ってもらった。彼女も日本語を勉強中だったから、私たちは3ヵ国語をごちゃまぜにして話した。フランス語で伝わらなかったら英語で言い直すとか、私がフランス語で話したことを彼女が「日本語だとこう?」と確認するとか、私たちの会話は本当にゆっくりとしていた。

(多分、私の英語/フランス語のレベルと、彼女の日本語のレベルが同じくらいだったから、こんなにお互いの言葉を待つことができたのだろう。そんな風に言語を学ぶ者同士のレベルが合うことは滅多になくて、貴重な時間だった)

一度、研究に行き詰まって、彼女と話している内に泣いてしまったことがある。「泣かないで」と言ってくれた。そっと頭を撫でて、「I know that you are so smart」とも(そんなことはないのだけど)。私のへたくそな英語での説明を聞きながら、どうしたらいいか、一緒に考えてくれた。言葉もわからない異国へ来て、ただでさえ自分も研究を抱えて、彼女だって大変な時期に決まっているのに。

語学教室のメンバーとは、2年半ほど一緒に学んだだろうか。彼は仕事のことを自分から話すことはあまり多くなかったけれども、話の端々から何らかの役職に就いていることが感じられた。

時に疲れた顔で授業に遅れてきて、「今日はle cliente difficiel(難しいお客さん)だった」と言って笑いを取る彼のことを、私は尊敬していた。そんなに疲れているのに、どうしてこんなに感じよく人に接することができるのだろうと、よく不思議に思っていた。

彼とは帰り道に最寄り駅までよく一緒に歩いた。転勤族の彼は、これまで多くの土地を経験していた。私が行ったことの無い、関東や中部、海外の都市。どこに行ってもいろんな人がいて面白いよ、と言える懐の深さは、万人が習得しているものではないと思う。親子ほども年の離れた私の話をよく聞き、あくまで対等な人間として接してくれた。

こうして、私を支えてくれた人が、またこの地から去っていく。
私は人よりも長く大学にいるから、いつもこの季節は見送る側だ。

こういう時、私は寂しさを紛らわせようとしないと決めている。寂しさを真正面から受け止めて、ああ寂しい、とじっと耐える。
寂しさを埋めようとして去りゆく人に縋っても、寂しさが消えないことを、私は知っている。
寝ても覚めても、どこかに出かけても、1人で家にいても、ご飯を食べても、この地に残る人と話しても、何をしてもまとわりつく寂しさを飼いならし、ゆっくりと大人しくさせていくほかない。

寂しいのは、それだけそのつながりが深かったことの表れだろう。
それだけ深く他人とつながれたことを、ありがたく思う。
人との出会いなんて奇跡みたいなもので、その出会いの中からたまたま気が合う人が見つかって仲良くなれるなんて、更に低い確率だ。
今年お別れする人たちとは、もし今後縁が途切れてしまっても、出会えたことや楽しい時間を過ごせただけで十分だ。

実際、寂しがってばかりもいられない。新しい季節があと少しでやってくるし、私は就活もしなくてはならない。
また新しい奇跡のような出会いが、きっと待っている。



最後までお読みいただきありがとうございます。 これからもたくさん書いていきますので、また会えますように。