「教育」とは何か?

日頃のテーマでもある「教育」というワード。いつも「教育」と「指導」とは何かを考えた時に、あれこれ浮かぶわけで、ちょっとそれを書き記してみましょう。

先ずはgoo辞書で2つの言葉を調べてみましょう。

「教育」
1 ある人間を望ましい姿に変化させるために、身心両面にわたって、意図的、計画的に働きかけること。知識の啓発、技能の教授、人間性の涵養 (かんよう) などを図り、その人のもつ能力を伸ばそうと試みること。

2 学校教育によって身につけた成果。
「指導」
ある目的・方向に向かって教え導くこと。

教育の説明に、「働きかけること」「図り」、「試みる」という言葉があるように、対象者に対して外部の人(他人)が何らかの支援や手段を以って働きかける(接触していく)というイメージが出来ます。

そして「知識・技能・人間性」という3つのワードが出てきました。「教育」を行う場ではこの3つを育むことが大切で、「教育者」はここを頭に留めておく必要があるのでしょう。

「指導」は簡素ですね。教え導くこと。

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塾やeラーニングでは基本的に「知識・技能」の教授に重点を置くものの、「人間性」に関してはそこまで踏み込まないと思います。(ヒトとヒトとの関係性というのは省いて)

「部活」で考えると、課外活動とはいえ「教育機関」が行うものですから、ここには「人間性を涵養する」が入り込んできます。ですので先生(顧問)が付いていることが多い。ただ大学の場合はプロ化、セミプロ化してきたものは境界が曖昧になってきます。「教員」が指導するのと、プロ指導者が指導するのでは意味合いが異なります。教える内容は変わります。

ここを学校から切り離して地域クラブなどに移行するとなると「教育」からは切り離されます。部活動を学校から切り離して、そこに先生が地域指導者という形で入り込むなら「教育」は不要となり、先生も「先生」ではなくなります。あくまで地域/プロ指導者と同列で、生徒ではなくプレイヤーという意識が必要になります。(教育を含めるなら、NPOなどを立ち上げ、目的の中に入れていく必要があるでしょう)

民間クラブが指導する場合は、やはり商業ベースが必要で、対価も発生する必要があります。そこにはかつての部活動ではなく、「指導」の観点がメインになります。

その辺の考え分けも必要になっていきますね。

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この2つの用語は2者が浮かび上がります。「教える」側と「教わる」側。あくまで立場の違いだから対等だ!と言われますが、これは人として対等(教える側が人として上に立つわけではない)という意味であって、この教授が行われる場では「教わる」側は学ぼうという姿勢を持つ必要があります。そうでないと、適切には上手く受け取り切れないでしょう。

「教える側(先生)」には厳しい矜持が必要なんですね。「知識・技能・人間性」が「教わる側」より上でなければならない。なので、教育機関は不祥事に大変厳しい。

塾やクラブの指導者は「教育」とは違う「知識・技能中心」となるのでそのあたりが「部活動改革」で変わっていきます。もちろん人間的に問題があった場合は「法」が適用されますが、「部活動」とは違ってくるのは確かでしょう。

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言葉を分解してみると、「教育」という言葉は「教える」と「育てる」になります。「指導」は分けたままの説明文が上にも出てきました。しかも「教育」の「教える」部分が重なっています。

goo辞書で調べてみましょう。

「教える」
1 知識・学問・技能などを相手に身につけさせるよう導く。教育する。教授する。2 知っていることを相手に告げ知らせる。3 ものの道理や真実を相手に悟らせて導く。戒める。教訓を与える。
「育てる」1 手間をかけて養い成長させる。養育する。2 能力などが伸びるように教え導く。手を掛けてやったり、教え鍛えたりして、一人前として通用するまでにする。3㋐小さな規模で出発した組織・団体などを発展させる。㋑ある考え方・気持ちなどが伸びていくように力を尽くす。4 手なずける。おだてる。そそのかす。

「教える」を調べると「知識・学問・技能」がトップに出てきます。「人間性」はここには出てきません。ここから考えると、人間性は「涵養」するもので、「教える」ものではないということでしょう。「教育」の中でどうやって「涵養」するかを図っていく。

でも、やはり日頃からでもそうですが「教える」には非対称性を伴い、一方から一方へ流れるもの。もちろん、「教える側」と「教わる側」は常に逆転していってもいいわけです。「教える内容」を持つ側が「その瞬間」に「教える」に立つ。それをきちっと分けないと、お互い行き違います。

学校の授業などはその「教える」が連続して起きているからこそ「立場が固定」しているように見える訳ですね。

塾やクラブでも「教える側」に対し、その場では必ず「教わる側」は姿勢を以って接遇しないと上手く教授が成立しません。良き場というのはそのあたりが上手く回っている状態を言うのではないでしょうか?

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さて、「育てる」を見ましょう。ちょっと4はイヤな感じがしますね。ただ「育てる」には何らかの作用が必要なことが解りますね。「育てられる側」に働きかける第三者の存在が見えます。放任では「育てる」にならないわけで、見守るにせよ、作用は必要不可欠でしょう。

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結び

「教育」も「指導」も中身がやや異なりますが、基本的には「教える」という言葉がメインですね。そして両者とも「教える」側がその「教える」内容を向上、修得、磨き上げていくことが求められるでしょう。

「教わる側」もどうすれば教わる上で効率が良いかと言えば自らの姿勢が一番大きな影響を与えることを知ることでしょう。それにより、伸び率が大きく違ってきますし、よき場の創出にも貢献出来ます。そこで「主体性」というワードが登場します。

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こういうと「厳しい」かもしれませんが、「教わる気」がない場合は、その場に参加しなければいいんですよね。そうすれば基本的にはずっと「対等」は保てます。

が、教わらないままずっと来ると先々苦労することは目に見えていますが。そういったことがないよう、学校なども配慮し、意欲を高めるように工夫しています。

それでも、それは「教える側」の工夫であって、「教わる側」がそのことにあぐらをかいて受け身で居ると、この関係は常に固定されてしまいます。「教える側」が常に意を砕き、「教わる側」は相手が何かしてくれるのを待つ。それでは入れ替わることも出来ませんよね。

積極性を持ち、主体的にというのはそういった部分を指します。教えてもらわなくて結構!という態度ではなく、「教わる側」にすっと自分から成れるかどうかだと考えます。もちろん「教える」ことも出来るようになっておくことも大切です。

「教える側」の工夫も大切ですが、「教わる側」がどういう姿勢を持つか。そして学校に通う子供を想定した時に、その保護者が子供にそういった姿勢を伝え、自らも考え抜くことが大事だろうと思います。

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私自身も学ぶ側、指導やアドバイスを送る側と何時も入れ替わります。場によって、立場や役割によって速やかに対応出来ることが大事です。

みなさんも、あなたなりに「教える」とは何かを考えてみませんか?

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