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クリスチャン・ボルタンスキーにプレゼンの極意を見た!

少し前の話になりますが、国立国際美術館にてクリスチャン・ボルタンスキーを見てきました。

皆さんにとって芸術とは、アートとは一言で言うとどんなものでしょう?noteご利用の方なら自分なりのご意見をお持ちの方も多くいらっしゃると思います。

私自身はと言うと、これまでそういった首題に向き合ったこともなく、考えたことすらありませんでした。要は「わかりまへん」が私の答えでした。

今回、妻が見てみたいと言うので、付き合ってみたら、なんとなくわかったような気になってしまったので、記事にしてみます。


1.クリスチャン・ボルタンスキーとその作品について

 以下、パンフレットからの説明文抜粋です。
クリスチャン・ボルタンスキーは、1960年代後半から短編フィルムを制作し始め、1970年代に入ると写真を積極的に用いるようになり、自己あるいは他者の記憶に関連する作品を多数制作し、注目を集めるようになりました。
~中略~
ナチスがヨーロッパを支配しようとしていた時代に撮影されたユダヤ系の人々の写真を用いることで、ナチスの暴力、および、ホロコースト以降の社会における死について問いを投げかけてきました。
~後略~

入ってすぐ、《咳をする男》という映像作品があったのですが、一人ぼっちの男が咳込みながら血を吐く苦しそうな様子をエンドレスリピートで流している映像で、いきなりとんでもない衝撃を受けました。

撮影可能なブースが限られていた為、一部の写真のみですが、雰囲気は絶対に伝わらないことを先にお伝えしておきます…。

《保存室》
大阪ミナミのアメリカ村にある古着屋ではありません。大量の衣服が吊るされた展示。ボルタンスキーにとって、着用された衣服、人間の写真、あるいは死体は、主体を指し示すオブジェなのである。

《発言する》
黒いコートを着たオブジェ。さながら死神のよう。胸元にスピーカーがあり、一定の間隔で不意に小さな音が出ます。音は私たち観客に対する語りかけで、非常に聞き取り辛い。意味不明のオブジェにひたすら耳元を近づけ、しかめ面で老人のように「うんうん」と頷く観客は、客観的に見れば相当シュールに見えるでしょうね。はっきり覚えていないが死がどう、とかあの世がどうした、とか話しかけてきますが、決して「朝ごはん何食べた?」とは話しかけてきません。

  《ぼた山》
黒い衣服の山。先の《発言する》に取り囲まれています。さすがのアメ村でもこんな服の売り方はしていない。どうやら売り物ではない様子。意味がわからない。

《アニミタス(チリ)》
チリのアカタマ砂漠というところで、細長い棒に取り付けられた数百の風鈴を使って、ボルタンスキーが生れた日の夜の星座を再現した映像作品。灼熱の砂漠で無数の風鈴がチリンチリンと音をたてるのを眺めていると、私は無性に冷やし中華を食べたくなった。

《スピリット》
ヴェールがゆらゆらとゆらめく。幻想的で美しいが、作家にとっては、さまよえる霊魂を呼び起こすものだそう。

《黒いモニュメント、来世》
電球から垂れ下がる電源コードは絵の具が滴るようにも見える。ふと、中国人の方向け?と錯覚したが、上海での展示では、「后来」と表記されている(パンフより)

当初、妻がムスメを連れてこようとしていたのですが(妻の実家にお泊りに行ったため不参加)、絶対連れてこなくて良かったね、と2人で言い合っておりました。大人でも夜おしっこに行くのが怖くなるレベル。

とにかく暗いし怖いしキモいしずっと変な音聞こえてるし意味わからん!

ところが…わからないなりにいくつもの作品を見ていくうちに、わからないことをわかろうとしている自分がいることに気付きました。

そうだった、私たち人間は、わからないことをわからないままにしておけない生き物。わからないなりに意味を考え、カテゴライズして、無理やりにでも答えを出すのです。

そしてわかろうとする時に、自分の中にあるものを使って理解しようとする。

要は、”作品とは問い”であり、その問いに対する答えは、私達の中にあるようだ、ってことに気付いたのです。

2.購買心理の7段階でお客様の心をキャッチ

営業職の方には馴染みの深い『購買心理の7段階』ですが、注意→興味→連想→欲望→比較→確信→決断という、購買に至るまでの気持ちの流れですね。

ファーストステップとして、まず注意を引くこと。

色んな感情がある中でも、よりストレートに心を揺さぶる感情が、恐怖や不安といった生命の維持に関わる感情ではないでしょうか。ここに最大限のインパクトを持ってくる。インパクトは大きければ大きいほどいい。まず見てもらえなければ意味がない。グッと惹きつけたら、後は勝手に見た人が答えを出す。

絵でも写真でも、それ単体では“意味”を持たないと思うのです。そこに“意味”をくっつけるのは人であり、人のココロではないでしょうか?

作品を媒介として、感情が、記憶が、何かわかりませんが、作家と観客の頭の中が繋がって、共感というか、引きずり出される感覚。伝わるとかっていうのはそういうことなのかな、と。

残念ながら私の頭の中からは、黒人が客引きしてそうなアメ村の古着屋か、冷やし中華食べたいという思いくらいしか出てきませんでしたが、正しいとか間違っているとかを超越した、いや、もしくはそれら全てを受け容れる、そういった力を持ったものが芸術なんだ、と思い至った次第です。

3.アート=プレゼンテーション仮説

元リクルートで部長職を務められ、都内では義務教育初の民間校長をされていた藤原和博さんの著書に、プレゼンの極意なるものが書かれています。

藤原流、プレゼンの極意
ー相手の頭の中の要素を組み合わせて説明する
プレゼンの極意は、相手の頭の中の要素を使って、それを組み合わせ、相手の頭の中に映写することです。
〜中略〜
例えば、新しいシャンプー「X」をプレゼンするとします。「X」には、これまでのシャンプーにまったくなかった成分が入っています。その成分をそのまま伝えると、相手は使うのを怖がり、拒絶してしまいます。
そこで、相手の頭の中にどんなシャンプーがあるのか、営業の手法と同じように聞き出すのです。
すると、相手がいつも使っているシャンプーが「A」、ちょっと気になっているエコロジー系のシャンプーが「B」、一度は使ってみたいと思っている高級シャンプーが「C」だとわかります。
そうしたら、「『X』は『A』と『B』と『C』を足して、3で割ったようなシャンプーです」と伝えれば、相手は安心して「X」に興味をもってくれるようになります。

「X」がクリスチャン・ボルタンスキーの作品だとすると、「A」「B」「C」は「アメ村の服屋」だったり「冷やし中華」だったりするわけです…あれ?ちょっと違うな…。

私が言いたいのはこういうことです…例えば、パンフレットの「ホロコースト」という記述を見てから、彼の作品に触れたらどうでしょう…《ぼた山》や《スピリット》はホロコーストの犠牲者たちに見えてきませんか。

「ホロコースト」について、大抵の日本人が教育課程で触れてますよね。相手の頭の中にあるものを使えば、説明不要の、優れた、効果的なプレゼンテーションが可能になるのではないでしょうか。

これがアートもまたプレゼンテーションである、という仮説に至った経緯です。

それにしてもアーティストっていうのはすごいですね。営業のプレゼンであれば、事前にヒアリングをして、相手の頭の中にある前提を把握して、それを使ってプレゼンが出来るわけですが、特定の対象ではなく、事前の情報もない中で、広く多くの人に”感じさせる”ことが出来るのですから。

4.マングースを飼っていると嘘をついたことがある

他方、与えられる情報を、私たちは勝手に自身の記憶に結びつけ、感情を動かされています。自分の知ってることや、記憶に結びつけて、こういうことだって、決めつけてしまうことがあります。私の場合も、自己肯定感の低さから、被害妄想や罪の意識に苛まれることがありました。こういった逆プレゼンには注意が必要です。感情が強く揺さぶられた時には、俯瞰してその理由について考え、反射的にマングースを買っていると嘘をついてしまうようなことが無いようにしたいものです。

https://note.mu/no_sense/n/nbbc2121c94c6

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