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育児の勘の価値と言語化の必要性について

研究者は先行研究、先行文献を調べるのが当然とされています。
そして、それらに基づいて、事象を分析し、発見していきます。

でも、育児や家事のような分野に関しては
(それ以外にも、あてはまる分野は多いと思います)
経験による知恵の集積があるにもかかわらず、
それらが十分に言語化、研究対象化されていないために
研究に活かされないのです。

特に女性が担ってきた分野は
「当然のこと」「母親ならあたり前にできること」
「女子供、つまり誰にでもできること」
とみなされてきました。

学術的な立場にない人たちが、
経済的な価値を認められずに無償で働いてきた人たちが、
それらを担ってきたのです。

そのような知恵に対して、どのように価値づけ、
そのような分野での研究をこれからどう進めていくのかということ、

あるいは

男性優位の社会の中で蓄積されてきた「科学」の優位性に対して、
女性たちの「経験」をどう価値づけていくか。

それは、研究の言語で語られなければ価値づけられないものなのか。

エビデンス、が、研究の中で示されなければ、
実践経験、あるいは、勘、というものには価値が認められないものなのか。

これはとても大きな問題提起です。


さて、先日、東京ステーションギャラリーで
9月25日まで開催中の「東北へのまなざし」展に行ってきました。
私の思考に大きな影響を与えている柳宗悦の思考が東北に残したものを見に行きたかったからです。

ブルーノ・タウトが来日し、そして柳宗悦が見出した「民藝」なるものは、
それまで、「どこにでもあるもの」でした。

柳の文章はとても示唆的です。 柳宗悦「雑器の美」より

併し不思議である。一生のうち一番多く眼に触れるものであり乍ら、その存在は注視されることなくして過ぎた。誰も粗末なものとのみ思ふからであらう。宛ら美しきものが彼等の中に何一つないかのやうにさへ見える。語るべき歴史家でさへ、それを歴史に語らうとは試みない。併し人々の足許から彼等の知りぬいてゐるものを改めて取上げよう。私は新しい美の一章が今日から歴史に増補せられることを疑はない。人々は不思議がるであらうが、その光は訝りの雲をいち早く消すであらう。
 併しなぜかくも長くその美が見捨てられたか。花園に居慣れる者はその香りを知らないと云はれる。余りに見慣れてゐるが故に、とりわけ見ようとはしないのである。習性に沈む時反省は失せる。まして感激は消えるであらう。それ等のものに潜む美が認識されるまでに、今日までの長い月日がかかつた。私達は強ちそれを咎めることは出来ぬ。なぜなら、今までは離れてそれ等のものを省みる時期ではなく、まだそれ等のものを産み、その中に生きつつあつたからである。認識はいつも時代の間隔を求める。歴史は追憶であり、批判は回顧である。
 今や時代は急激にその方向を転じた。凡てのものが今日ほど忙しく流れ去ることは又とないかもしれぬ。時も心も亦は物も、過去へと速かに流れた。因襲の重荷は下ろされたのである。私達の前には凡てが新しく廻転する。未来も新しく又過去も新しい。慣れた世界も今は不思議な世界である。吾々の眼には、改めて凡てのものが印象深く吟味される。それは拭はれた鏡にも等しい。一切が新しく鮮かに映る。善きものも悪しきものも、その前には姿を偽ることが出来ぬ。何れのものが美しいか。それを見分くべきよき時期は来たのである。今は批判の時代であり意識の時代である。よき審判者たる幸が吾々に許されてある。私達は時代の恵みとしてそれを空しくしてはならない。
 塵に埋もれた暗い場所から、ここに一つの新しい美の世界が展開せられた。それは誰も知る世界であり乍ら、誰も見なかつた世界である。私は雑器の美に就いて語らねばならない。又その美から何を学び得るかを語らうとするのである。
(引用終わり)

育児の伝統が途切れようとしている今、
私たちは「民藝運動」のように「育藝運動」を起こさねばなりません。

育児しかり。教育しかり。

日本の風土に合った知恵をどう次の世代に伝えていくか。
これからの高齢化社会の中で、高齢者の生きる意義を私は感じています。
日本の育児を知っているのは、すでに90歳近い人たちです。
彼らの持っている知恵や技術は、失われようとしています。
急がねばなりません。

そして、育児の研究のあり方を、考えていかねばなりません。



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