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時間が目に見えたら | 浪江の記録 #3

もし時間が目に見えたら、どうなるだろうか。

ゆっくり、早い、それだけの表現ではなくて。
空を流れる雲のように穏やかだったり、嵐みたいに荒れていたり、もしくはずんと、腕を引っ張られるような重みがあったり。

桜は時の流れを感じやすい。

いろんな見え方があるんじゃないかと、思っている。都市によって変わるのだろうか。それとも場所に関係なく、やっぱり一人ひとりによって変わるのだろうか。

というのも、浪江にきてから砂時計がほしいなと思ったのだ。
別に時間を確認するのなら、携帯のスマホでも、タイマーでもいいのだけど、さらさらと静かなら音を立てながら、時の砂が瞬き消える。時間という概念を、目で、もしくは耳で確かめたいなと思った。

今は実家に帰省しているのだが、砂時計をみて時空みたいだなと思った。
上が未来、真ん中の通り道は今、下が過去。今という空間はとても一瞬で、下に落ちた砂が戻ってくることはない。失った時間はかえって来ないから、一瞬一瞬を大切にするみたいに。砂時計を発明した人は天才だ。

そうして、1日の終わりに、砂時計の砂が落ちるまで、世界をスローモーションで振り返る。日記を書いても、瞑想のように瞼を閉じてもいい。(目を閉じたら、時間が逆に止まってしまうかも。) 明日はどのように過ごそうかと、胸を躍らせてから布団に潜る。

そんな風景を思い浮かべて、いい砂時計がないかなぁと探している。

*****

地方に来たら、たしかに生きるスピードはゆっくりになった。というか、どのように一日を過ごしたいかを自分に委ねられるようになった気がする。

ある日の夕方!

まちを歩いていたら誰かにすれ違い、挨拶をして立ち話。わたしは車を持っていないので今のところ移動は徒歩メインだし、お手軽に外食ではなく自炊の機会も増えた。時間をたくさん使っていそうで、でもゆっくりに感じるのは何だか不思議だなと思う。

だから結局のところ、時間の感じ方は1日をどのように過ごしたいかに限るんじゃないかと思った。

全てはあべこべかもしれないなぁって。
本を読む時間がないからではなく、本を読まないから時間がない。
散歩する時間がないからではなくて、散歩する時間をつくらないから時間がない。
誰かと会話する時間がないからではなくて、会話しないから時間がない。

これは隣町。ケーキ屋さんが遠いのは少し悲しい。笑

地方に住んでるからできる、とか言われそうな気がするけど、究極はそんな気がする。東京にいた時は、何かと忙しいから、もっと優先することがあるからと理由をつけていたのかもしれない。

今は時間を意識して生きているような気がするので、もっとこんな色にしたい、こんな流れにしたい。そんなことを想像をしながら、じゃあこの時間を増やそう、あの時間は減らしてもいいかもな。という向き合い方になっている。(わたしはかなり大雑把な時間感覚が心地よい。)

あなたはどういう風に時間が見えているだろうか。
なんだか移住とは少し離れてしまったけど、お互い豊かな暮らしが送れたらと思いました。

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