見出し画像

読んでない本の書評32「ソラリスの陽のもとに」

170グラム。見た目の印象より30グラムほど重い。心当たりのない記憶が芋づる式に載っているせいだろう。

 名画座にタルコフスキーの映画「惑星ソラリス」を見に行ったのが最初の出会いだった。
 とにかく寒い日だったが、これほど古い映画をスクリーンで見られる機会はそうないだろうし、見逃せば一生見ないまま終わってしまうかもしれない、と思ったので足を運んだ。
 暖かく居心地の良い劇場で、「ソラリス」は始まった。宇宙ステーションに似つかわしくない雰囲気の女性が登場したのを見て、まばたきして目をあけたら主人公が知らないおじさんの膝にすがって泣いていた。女性とおじさんの繋がりがさっぱり分からないまま家に帰って、答えあわせしたところによると、あの長い映画をほぼまるまる一本眠っていたようだ。気持ちよかった。

 次に小説を手に取ったときは、やっかいな元カノをロケットにつめて宇宙に捨てるシーンがどうにも面白くて仕方なくなってしまった。作者のレムには申し訳ないけど、全体の描写に緊張感があるぶん、そこだけ「スーパーひとし君を宇宙にボッシュート」みたいになってるのが異様に輝いてみえ、ほぼその印象だけしか残らなかった。ほかのところがあんまり理解できなかったのだ。

 それでもえらいもので、もう一度手にとるといきなり身につまされるほどよくわかるようになっていたりする。「ソラリス」は埋もれていた記憶を掘り起こしにやってくる。

 身内の恥をさらすようで彼女に申し訳ないのだけれど、私の母には軽い汚言症の傾向があった。家事などしているときに、唐突に、品のない言葉を言い放って平然としている姿を見るのは本当に嫌で、なぜこんなに下品な人なのだろうと思ったものだ。
 これが恐ろしいことに、あの頃の母親くらいの年齢になってきたころ自分自身にもまったく同じ傾向を認めるようになる。自分の意志とはまったく関係なく、意図しない言葉が口から出てくる。
 それでも百歩譲って、道徳観などから封印している願望なんかが口から出てしまうならまだいい。いや、冗談じゃないけれども、何か精神的な課題があってそれと向き合えばいいんだろうということならまだ理解はできる。しかし、全然思ってもないことが口から出てくるのには本当に頭を抱える。どこから出てくるんだ、それ。

ソラリスに次々と記憶を実体化してみせられることに疲弊しきった科学者のスナウトは言う。

そういうことを考えたのがその人間自身ではなくて、その人間の内部の何かが不意に頭をもたげて何か良くないことを考えたと仮定しても同じことだ。とにかく十年か三十年の遠い昔にそういう精神的葛藤を経験した人間があると仮定しよう。おそらくその人間はその時の卑劣な考えをすっかり克服していて、すでにそういうことがあったということすら忘れてしまっていて、同時に、そのことを恐れてもいない。なぜならその卑劣さが実行に移されることは決してないことを本人自身がよく知っているからだ。ところが、考えてみるがいい、突然思いがけなく、白昼、人々の面前で、それが血と肉をもつ人間の形をとって姿をあらわし、しつこくまつわりついて、叩きつぶそうとしても、どうにも消え去らないとしたら、どうだろう?その時はいったいどうなるだろう?

そうそう、それ私も不思議だったのよ、と思う。フロイト式に抑圧された意識でもなんでもない。根も葉もないとまでは言わないにしても、どう考えても今の自分には何も関係ないものが急にぽろっと出てくるのは本当に理不尽ではないか。なぜそんな目に合わねばならぬのか?

 ソラリスはただ遊んでるようにみえる。人間の記憶の中に埋もれたものを見つけて「ねえねえ、奥のほうにこんなものあったよ」と出してくるのがうれしいみたいだ。まさか人間の神経がそんなに脆くて、脳の中にあるデータにやられて自滅するなんて予想もしてないのではないか。

 そうだとすると、なるほど私のソラリスであるところの言語中枢も遊んでるのかもしれない。「ねえねえ、こんなものあったよ」と、生活を一気に破壊しかねないような地雷を平気で取り出してくる。意味なんかない。
 ソラリスに向かって人間にできることはただひとつ、途方にくれるだけである。冗談じゃない。でも仕方ない。

この記事が参加している募集

#推薦図書

42,385件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?