見出し画像

読んでない本の書評63「2001年宇宙の旅」

210グラム。201グラムだったらタイトルと語呂が合うみたいでうれしいなあ、という期待を抱いたのであるが、宇宙的意志は安直な迎合はしないものである。

 例の、『2001年宇宙の旅』である。困ったことだ。
 キューブリックの映画はおそらく三回以上は見ている。意味が分からないけど、みんなが名作だっていうから分かるまで見るしかあるまい、と思ったせいだ。わたしは、そういうところは真面目なのだ。
 もう少し正直に言うと、最後まで起きていられた試しがないので、何度も見直さざるを得なかった。いつの間にか眠り込んでいて、起きたらおじいちゃんが白い部屋で呆然としている。それを見てこちらも呆然としてたら、いつも終わってしまうのだ。困ったことだ。

 そんな困った『2001年宇宙の旅』も、アーサー・C・クラークの小説を読めばたちどころに全部わかるのだと聞く。それじゃあ、いつまでも秘密主義のキューブリックにすがりついていないでそちらを読もうと思った。思ってからいったい何年経ったことか。

 正直なところ小説『2001年宇宙の旅』も、なんだかピンとこなかった。絶対にありえないところに、やけにガッツのある物体が忽然と存在していて、それがなんだかこんにゃくみたいな形をしてる、というのはすごく面白い。
 さらに、そのこんにゃくが宇宙に人間を接待するために待合室みたいな部屋を用意してくれて、そこにはゴッホの「アルルのはね橋」とワイエスの「クリスティナの世界」が掛ってる、というのもいい。宇宙意志こんにゃくよる人類愛的な配慮がゴッホとアンドリュー・ワイエスに着地するとは、なかなか味わい深いではないか。
 そして、映画に比べて読み取れた情報というのは、実のところその程度だった。

 我が上なる星空にたいする想像力に、決定的に欠けているせいかしらん。
  猿からはじまって、道具を手にすることで支配的な存在になり、道具もコンピューターや宇宙船へと進化し、さらには頭脳に特化した存在になって肉体がいらなくなるのだとしても、それが誰の意志によるものなのかというところにとりたててロマンを感じないのは、何かちゃんと読み取れなかったものがあるせいだろうか。そうなんだろうな。足元ばかり見て暮らしているものだから。


この記事が参加している募集

推薦図書

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?