読んでない本の書評9「山椒魚戦争」
1970年の版である。今の文庫本では考えられないほど小さい文字をぎゅうぎゅうに詰め込んでの172グラム。文学に見る山椒魚というのは、狭いところに押し込められがちな傾向があるようだ。
地方都市とはいえ、それなりの規模の市街地で育った。ゆえに里山をかけまわるような子ども時代は過ごしていないが、山椒魚を飼ったことはある。
家族で山菜取りに行った山中で卵を見つけたのだ。今思えば、あれをどうやって「山椒魚である」と判じたのかがわからない。そのぶにぶにしたものは、素人がパッと見てカエルの卵と明確にみわけられるものだったろうか。
とにかくその「山椒魚」は持ち帰られ、しばらく水槽で飼われた。やがて足のはえたオタマジャクシのようなものが出てきたことまでは覚えている。そしてそこでふっつりと記憶が途切れる。あの「山椒魚たち」はいったいどうしたろうか。
あれが本当にカエルではなく山椒魚だったのだとしたら。今私の身にこまったことを引き起こしているのはあの山椒魚たちなのかもしれない。
家計が赤字続きのなか税金があがるのも、蓋をきちんと閉めていないめんつゆの瓶を横にして冷蔵庫にしまうのも、乗るたびに自転車のサドルが緩んでいるのも。
あの時、私は何か彼らに悪い事をしただろうか。山椒魚はすべてわかっていて、当時から決して性格のいい方ではない私のことを水槽から見ていたんだろうか。
かわいいような、気味悪いような、思慮深いような、鈍いような、優しいような、どう猛なような、ひと目では判断のつかない容貌を身にまとっている山椒魚の戦略は実に賢い。
彼らを甘く見たあげく、忘却の彼方へと押し込めた私は、今や山椒魚がデザインした人生の中で黙々と伏線回収をしてまわってるだけのことだ。日々、いろんなところで身に覚えのない困ったことが起きるが、なすすべはない。
あの時山椒魚と、もっとよく知り合って、話し合ってみるべきだったのだ。
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