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陰謀の日本中世史 (呉座 勇一)

(注:本稿は、2021年に初投稿したものの再録です。)

 以前読んだ出口治明さんの本で紹介されていたので手に取ってみました。

 なかなか “刺激的なタイトル” ですが、単に「陰謀論」を紹介しているのではなく、実しやかに語られる陰謀論を論理立てて論破していく内容です。

 論破の対象は “史実(と主張されるもの)” ですから、論破の根拠は現存している「文献史料」が主になります。そして根拠の正当性を示すにあたっては、その記述の正否も含めその史料の内容をどう解釈するかがひとつのポイントになります。

 たとえばの例です。

(p81より引用) 鎌倉後期に成立した歴史書『吾妻鏡』は、北条氏による政権掌握を正当化する側面を持つ。よって傲慢な義経を非難するだけでなく、勲功ある弟を死に追いやった酷薄な頼朝に対しても批判的であり、この兄弟の確執が後の源氏将軍断絶につながった(頼朝の子孫が絶えたのは頼朝の自業自得)という理解をとっている。こうした『吾妻鏡』の主張を支えるため、「頼朝による義経謀殺未遂事件」という頼朝の冷酷さを強調する挿話が生み出されたと考えられる。

 「吾妻鏡」のような半ば公権的な文献文献を扱うにあたっては、史書編纂者の解釈や記述にもバイアスがかかりうることを留意すべきと著者は指摘しています。
 古くは「日本書紀」に始まるように、まさに「歴史は“勝者の歴史”」ということですね。

 また、歴史研究においては、こういった傾向もあるようです。

(p41より引用) 私は常々「歴史研究者は、研究対象に似てくる」と感じている。中世の公家を研究する者は、彼らの価値観、思考様式を深く理解しなくてはならない。そうやって長年彼らに寄り添っていると、ものの考え方が知らず知らずのうちに彼らと似てきてしまう。当時の公家が「非常識であり得ない」と思うことは、その研究者にとっても「非常識であり得ない」ことになってしまうのである。

 その他にも、陰謀論を掲げる研究者にみられる立論の傾向としては、「結果から逆算した陰謀論」「加害者と被害者の立場の逆転(主体と客体の逆転)」等、著者は様々なバイアスの存在を指摘しています。

 さて、本書では中世以降の戦乱に纏わる様々な「陰謀論」を議論の俎上に載せていますが、その中で印象に残ったもののひとつが「日野富子、応仁の乱元凶説」の真偽です。

(p198より引用) 「応仁記」は義視と仲が良かった日野富子と山名宗全に濡れ衣を着せた。富子と宗全は義視を排除するための謀議を行っていたことにされたのだ。・・・ 富子は明応の政変で足利義植を将軍から追い落とし、畠山政長が戦死するきっかけを作ったため、義稙と尚順の恨みを買っていた。しかも富子は明応五年(一四九六)に亡くなっており、親族も既にこの世にいなかった。富子は、義視排除を企てた悪女として応仁の乱の全責任を押しつけるにはうってつけの存在だったのである。足利義植―畠山尚順と細川高国は、富子をスケープゴートにすることで、和解を実現したのである。

 事程左様に、実際の「史実の真偽」は、まだまだ解明し切れていないものが多々あるようです。

 司馬遼太郎の作品群のように世間大衆に流布しているものであっても、そこで描かれている歴史上のエピソードは、いくつもある諸説のひとつに準拠して書かれているに過ぎません。

(p304より引用) 景勝が徳川家康の上洛要請に応じなかったのは、家康を挑発して奥羽に誘い出し、その隙に石田三成らが上方で挙兵するという計画があったから、という説がある。司馬遼太郎の『関ヶ原』もこの見解を採っている。・・・
 しかしながら、六月二十日付け兼続宛て三成書状は軍記類にしか見えず、偽文書と考えられる。・・・
 直江兼続が意図的に徳川家康を挑発し、家康を奥羽におびき出す。その隙に石田三成が挙兵する。だが、それこそが家康の思う壺であり、三成・兼続は家康の掌で踊らされた――こういう虚々実々の謀略戦はフィクションとしては面白いが、現実の歴史とは異なる。

 小説は小説。著名な歴史小説に書かれているからといって、その説が「真」であるか否かは全く別物です。
 書かれている目的が「学術的な研究成果の開陳」ではないわけですから当然ではありますが、小説の読み手からすると、そのあたりの受け止め方が悩ましくなります。
 「歴史小説」はすべからく、そういった背景を踏まえつつ物語を楽しむ姿勢が肝要でしょう。



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