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「迦陵頻伽の仔の憧憬」



 闇に包まれた石窟せっくつの奥で二柱の燭台に炎が灯されると、上品下生印じょうぼんげしょういんを結んだ阿弥陀如来あみだにょらい立像りゅうぞうが顕現した。黄金色に輝く身体の丈は約七尺半※1。相対する良嗣よしつぐと、奇しくも等しい巨躯だった。
 立像が発する威圧感を物ともせず、オトは良嗣の側に座り込み、口に干葡萄を放って頬の中で転がした。少女の舌を虜にする瓜州かしゅう※2 名物の甘味は、眼前の立像よりも優先に値する悦楽だった。

「まさか全部廻る・・・・気じゃないだろうなぁ!?勘弁してくれよ」

 もたつく口元から発せられたオトのかん高い声が、岩壁を反響して所狭しと駆け巡る。良嗣の鼓膜と肌は同時に震えた。陽の射さぬ石窟に流れる凍て付いた空気は、月下の砂漠を流離さすらう風に似ていた。

「案ずるな、ここだけ・・・・で済ませる」

 二人が訪れている莫高窟ばっこうくつは、瓜州の断崖に造営された数百もの石窟で成り立つ。それらは僧侶達の修行場であると同時に、旅人や商隊が行先の安寧を願う巡礼地の役割も担っていた。
 オトが導くまま西域さいいきを征く良嗣も、多くの参拝者と同様に膝を突いて合掌し、神妙な面持ちを崩さずに唱えた。

「南無阿弥陀仏」

 繰り返される念仏に立像は何も応えず、ただ二人を見下ろすばかりだった。
 祈りは良嗣の日常に根を下ろしていた。とうへ渡る直前には、通例となっている住吉大社すみよしたいしゃへの参拝に限らず、様々な寺社を巡って航海の安全を祈願した。良嗣は遣唐使団を統べる遣唐大使として、無謀な航海を成功に導く責務があった。そのためには神仏の助けが要る。かつての良嗣は信じて疑わなかった。
 一方、祈りの傍でオトは長髪を振り乱し、良嗣と立像の顔を幾度も見返していた。

「ん──……」
「どうした?」

 良嗣は眉間に皺を寄せ、腕組みするオトを凝視した。

「いや、何かさぁ……。ひひっ、きぃひひひっ!」

 無邪気な声が石窟内に響き渡る。オトは良嗣の顔を前にして、一層激しく引き笑いを続けた。

「おい、何が可笑しい!」
「ひひひひっ……!だ、だって!似てんだよ、顔!顔っ!それに雰囲気も!」

 呼吸を乱したまま、オトは良嗣と立像の顔を交互に指差した。
 仏像染みた面構えをしているな。かつて時のみかどより放たれた言葉が、良嗣の耳に蘇ったいわく、真一文字に結んだ厚い唇と半眼の瞳が、東寺とうじ薬師やくし如来像を想起させたという。
 図星を突かれた一言に、良嗣は頬を紅潮させた。急ごしらえの呆れ顔は、照れ隠しの産物に他ならない。

「適当なことを」
「本当だって!光栄だろ、ひひひっ」
「誰が光栄なものか」

 決まりの悪さを誤魔化そうと、良嗣は目を伏せながらせわしく手を動かした。
 視線が捉えた立像の足元には、先客達が残した数多の蝋燭が置かれていた。皆背丈は低く不恰好だが、芯は辛うじて生き永らえていた。良嗣は着火済の蝋燭を鷲掴みにして、手当たり次第に炎を分け与えていった。太い指に流れる溶けた蝋の熱は、分厚く硬化した皮膚が頑なに拒んだ。
 灯りの数が増え、石窟が強い光で満たされていく。
 すると、天井の暗闇が青く晴れ渡り、岩壁に余す所なく描かれていた極彩色の壁画が全容を現した。

「おぉ」

 先刻の冗談も干葡萄の味も忘れ去り、オトは興味深そうに周囲を見渡した。噂に名高い莫高窟の壁画は、幼心をも掴む程の麗しさを秘めていた。
 青空の中に描かれていたのは、絢爛豪華な宮殿楼閣くうでんろうかく。鎮座する仏。舞う天女達。その様はまさしく、具現化された経典の世界だった。
 観世音菩薩かんぜおんぼさつ補陀落ふだらく浄土や弥勒みろく菩薩の兜率天とそつてん仏国土ぶっこくどは数多あるが、阿弥陀如来を祀る石窟に描かれた世界は極楽浄土に違いない、と良嗣は結論付けた。そして、尚も壁画に惹かれ続けるオトに、彼らしからぬ提案を持ち掛けた。

「探してみるか」
「何を?」
仲間・・だ」

 外套に包まれたオトの背中を、良嗣はそっと叩いた。分厚い手を麻布あさぬの越しに包み込むのは、人肌や背骨の感触ではなく、幾枚もの羽根が織りなす翼だった。
 極楽浄土に住まう迦陵頻伽かりょうびんが。妙なる声でさえずる、人と鳥の特質を備えた存在。愛娘を弔った僧侶の言葉を、良嗣は片時も忘れていない。 

「ん」

 オトは良嗣の外套を掴み、繰り返し引っ張った。

「上の方、よく見えないんだよ」

 要求に余計な言葉は不要だった。良嗣はオトを担ぎ上げて左肩に座らせた。他人に足先を見せないため、また幼い身体を労るための配慮は、いつしか逞しい止まり木を作り上げていた。
 青空に触れられる程の高さから、改めてオトは同族の姿を探した。翼を持たぬ仏菩薩ぶつぼさつと天女がひしめく壁画の中から、童心の意地と根気は遂に翼を捉えた。

「あ!いた!あそこっ!」
「どこだ?」
「左の角っこの方!で、赤い服着てるやつの少し上!」

 細指が示した先には、翡翠色の羽衣を身に纏い、頭上に髻《もとどり》を掲げた迦陵頻伽の姿があった。琵琶を奏でながら白い翼を広げて空を舞う様は、えも言われぬ清浄しょうじょうさと優雅さを醸し出していた。
 壁画の迦陵頻伽とオトを見比べながら、良嗣は淡々と意趣返しを放った。

「……似ていないな」
「似ててたまるか!あんなつらと格好でうろつき回ってみろよ、目立って仕方ないだろ」

 オトは皮肉の込もった正論を返すと良嗣の肩から降り、土色の外套を捲って隠した姿を露わにした。膝下は骨のように細く、足先は鋭い鉤爪が光り、背に伴うは白き翼。迦陵頻伽としての有様は、信頼の置ける相手にしか晒していない。
 砂埃を気にも留めず、オトは石窟の床に寝転がって呟いた。

「飛べたらなぁ」

 再び遠く離れてしまった青空に、小さな両手が伸びる。

「ああやって飛べたらさ、吐きまくった海だって薮だらけの山道だってクソ暑い砂漠だって、全部無視して行けたのに。コソコソ隠れ回らなくたっていい。誰にも邪魔なんてされない。おれを呼んでる方へ真っ直ぐ向かってやる」

 純粋無垢な憧憬しょうけいを、良嗣は無言で受け止めた。
 オトの翼は空を知らない。幾枚もの羽根は毟られたように抜け落ち、羽ばたきさえもままならず、癒える気配は一向に見られなかった。
 壁画の如く空を飛べさえすれば、危険を冒して密航を試みる必要も、出会う理由すらも存在しなかっただろう。座り込んで思考を巡らす良嗣の背中を、小さな手が勢いよくはたいた。

「ばぁーか!寂しがるなよ!置いてきゃしないって、おれ無しじゃここまで来れてないだろ」
「大した言種いいぐさだ」

 冗談めいた大口を、良嗣は否定しなかった。
 人間離れした精緻な感覚が拾っていたのは、西の彼方から響く歌に限らない。オトは海風の調べを詠み、嵐の被害が最小限に留まる航路を陰ながら良嗣に口添えした。瓜州へ至るまでの陸路でも、差し迫る危機の予兆を次々に察知した。オトの助力で脱した窮地の数は、枚挙にいとまがなかった。

「でも、おれだけじゃここまで来れてない」
「……ああ、そうだな」

 娘をうしなった時、良嗣は自身の胸の脆さを知った。多忙を極めた官職も家族や友との語らいも、穿たれた穴を埋めるには至らなかった。
 しかし、オトとの邂逅は穴の存在を忘却の彼方に追いやり、良嗣に遣唐使団からの出奔さえも決意させた。行く先に降り懸かった火の粉は、体躯を活かした剛腕で容赦なく払い除けた。道を示すオトと切り開く良嗣。果ての見えない旅路には、互いの存在が必要だった。

「寄り道は終わりだ」

 良嗣は再び腰を上げた。感傷に浸り続けるよりも手足を動かす性分こそが、歩を進める原動力だった。

「街で陽関ようかん行きの商隊を探すぞ、人手不足のな」
「その前に昼メシだ昼メシ!羊がいいな、また葡萄も買っといてくれよ」

 仕方のない奴だ、と呟きながら、良嗣は指に力を込めて蝋燭を扇いだ。巻き起こる風圧は立ち所に炎を消し去り、極楽浄土を再び暗闇へと帰した。
 仄明かりが射し込む出口へ踵を返す前に、良嗣はもう一遍だけ念仏を唱えた。

「南無阿弥陀仏」

 声には感情が宿る。意思が宿る。心が宿る。オトの鋭敏な聴覚が拾う良嗣の念仏からは、常に畏敬の念が欠落していた。その空虚な祈りの真意に向き合う勇気を、今のオトは持ち合わせていなかった。



「迦陵頻伽の仔は西へ【完全版】」に続く


そして、二人の旅は続く……


※1 約七尺半  約223.5cm。養老律令ようろうりつりょうにおける尺貫法(一尺=29.8cm)にて換算。
※2 瓜州かしゅう  現在の敦煌とんこう

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