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問いをつくる力 -こどもと哲学

コロナ禍をきっかけに、今年の夏からオンライン上で子供たちを対象にしたアートのレクチャーを始めました。

今はまだ小規模ですが、自分の実践をこれから徐々に広めていこうと思っています。ただ、自分が今やっていることを明確に言語化するのは難しく、自分が志向していることをもう少し的確な言葉で整理しなくてはいけません。

何故なら、「子供向けのアート教室」という、いかにも人当たりの良い言葉のニュアンスでは言い表せないようなことをやっているからだと思います。まずはそこから言葉の再定義をした方が良いでしょう。

初回のレクチャーでは「アートって何だろう?」と題して、アートの歴史、いわゆる芸術史を土台にしたレクチャーを構成しました。あつかう題材は約2万年前のラスコーの洞窟壁画からオラファー・エリアソンの現代アートまで。いずれ、noteでも内容について紹介したいと思いますが、とりあえず今回は詳しくは触れません。

つづく2回目のレクチャーでは、初回の芸術史的な内容を引き継がずに、全く別の視点でアートについて考えてもらおうと、「アートと自然」という構成にしました。つい先日おこなったばかりの、僕にとっての最新作です。

子供たちに意識してもらいたかったことは、いつくかあります。
一つは、改めて身の回りにある自然とは何かいう問いかけです。僕はストレートに「みんなのまわりにある自然って何がある?」と問いかけました。

ちなみに先日のレクチャーで子供たちから帰ってきた答えは、こちら。
花、木、植物、水、空気、台風、動物、雪、風、星、地震、土、石...
いい言葉の並びですよね。今にも詩が生まれてきそうな子供の感性です。

次にスライドで、ゴッホのひまわりの絵を見せながら対話型鑑賞をします。

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みんなそれぞれの感想が落ち着いた頃合いに、次なる質問を重ねます。

僕「花の絵を描いたことがある人はいる?」
子供たち全員が、元気よく手をあげます。そりゃそうですよね。花の絵を描いたことがない子供なんていないはずです。

どこで描いた?と聞くと、「(通っている)造形教室」、そして「学校」。

さて、ここからが重要です。

僕「じゃあ、何で花や自然の絵をかくの?

さっきまで威勢のよかった子供たちが、きょとんとします。思考がフリーズするのも当然です。きっと考えたこともなかった疑問だったからです。

「アートと自然」と題したレクチャーのなかで、この問いが何よりも重要な視点だと考えています。また、美術教育における自分の仕事とは、こうした問いを考えることに尽きると言っていいのかもしれません。

レクチャーはその後、自然の反対物、つまり人工物について説明したあとで、アート作品のなかに描かれてきた「対象物としての自然」を紹介していきました。扱う作品はベタですが、葛飾北斎とターナーの波にはじまり、そしてモネの睡蓮(オランジュリー美術館)とスライドはつづきます。

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一方で、「素材(材料)として扱われてきた自然」も紹介します。
ここでは現代美術作品のみに絞りました。ジュゼッペ・ペノーネ、須田悦弘さんの木彫作品からニルス・ウドの写真作品、そしてヴォルフガング・ライプの花粉のインスタレーションとジェームズ・タレルの《ブルー・プラネット・スカイ》(金沢21世紀美術館)などです。

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ちなみに、ウォルター・デ・マリアの《ライトニング・フィールド》の雷が落ちている写真も見せたのですが、やっていることの意味が分からなすぎたのか、子供たちはほぼ無反応でした(笑)。

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絵画と立体作品(一部は写真作品)、それにランドアートと呼ばれる環境芸術、どちらもメディアは違いますが、「本物の自然」と「アート作品を通して見える自然」の違いについて考えてもらおうと選んだ作品群です。

そしてオスカー・ワイルドの小説に登場する有名な一節を紹介しました。

「芸術は決して自然の模倣ではない。むしろ自然が芸術の模倣である。」

自然を描くこととは、芸術が自然を模倣するのではない。
つまり、19世紀後半には、アートによって自然が発見されていたのではないか?という見立てができたのでしょう。

同じくワイルドの言葉を引用した、中井正一さんの『美学入門』(中公文庫、2010年)には、ターナーの描いた霧が例えとして挙げられています。それまでロンドンに住む英国人は霧の美を知らなかった。ただ困ったもんだと思っていた。ところが、画家に描かれてはじめて、美しい霧として、ロンドンの霧が人間の前にあらわれたのだと。非常に分かりやすい例です。

考察を進めていきましょう。一方で、産業革命後のワイルドが生きていたその当時、同じ自然を対象にして発展してきたものとは何でしょうか?

それは「科学」だと思います。

同じ自然を対象にしていても、科学とアートはその向き合い方と、アウトプットされるものの性質が異なります。ツッコミされるのは承知で、大雑把にこの二つを分類してみました。

科学 → 客観的な知識、法則
アート→ 主観的な感性、個性

自然とアートという二つの属性の違いについて考えてもらう際、科学という別の視点を投げかけることで、アートという朧(おぼろ)げなものの輪郭がもう少し具体的に浮かび上がってくると考えました。

そして最後にもう一度聞きました。「何で花や自然の絵をかくの?」と。

レクチャーの結論から言うと、活発な言葉は返ってきませんでした。
子供たちにはちょっと難しかったようです。でも、たった一時間のレクチャーのなかで答えが出なくていいと僕自身も思っています。

何よりも重要なのは、答えのはっきりしない問いと向き合うことに慣れてほしいということです。

このように、僕が子供たちに教えたいのはアートそのもの(歴史や技法をふくむ)だけではありません。アートという「ものさし」をつかって、身近なものや認識を見つめ直す、そうした態度を子供たちの内側から引き出したいのだと思うようになりました。

そこで子供たちに求めているものを一言で言ってしまえば、「問いをつくる力」と言い切ってもいいかもしれません。

ふと思い出したのは、フランスの学校教育のことでした。
僕がフランスに滞在している間に、現地の文化にたいして驚いたことは山ほどありましたが、なかでも強烈に覚えているのは、小学生のうちから哲学の授業があるということでした。

つまり、子供の頃から答えのないことについて議論し、抽象的に物事を考えられる土壌がある、という事実が衝撃でした。

しかし納得もしました。フランス人は四六時中、議論が大好きで、さらに質問するのも大好き。そしてどんな職業の人間であろうと、彼らは自分の考えを自分の言葉で語れているように、日本人である僕の目には映りました。

一言で言うと、彼らの精神は逞(たくま)しい。その背景には子供の頃から答えのない問答を繰り返してきた教育が大きく影響しているのです。

近頃、ネット上でも書店の棚でも「アート思考」という言葉をよく目にします。「アート思考」というキャッチーな言葉を、自分なりに言いあらわすのならば、「芸術的に物事を考える態度」と言い直してみたいと思います。

では、「芸術的に物事を考える」とは具体的にどういうことでしょうか。
思うに、答えのないことについて自分なりに視点で考えてみる。そして、常に「問う」ことのできる開かれた心を持つことだと思います。

この二つの資質は、まさに自分のようなアーティストにとってこそ、必要不可欠な資質です。しかし、アーティストに限らず、今後の先行きの不透明な時代を生きるためには、誰しもが欠かすことのできない能力のような気がしています。

はじめに書いたように「子供向けのアート教室」をやっていると謳っていますが、実際に僕がやりたい内容を再定義するならば、答えが一つではないアートを題材にした「子供の哲学」に近いのかもしれません。

さて、このような授業内容が現代の日本でどこまで需要があるのか分かりませんが、この命題を今後もひきつづき追っていきたいと思っています。

作品制作のための取材をはじめ、アーティストとしての活動費に使わせていただきます。