【ショートショート】祖母の家
私の祖母の家は田舎にある。何車線もあるような道路が通っているわけでもなく、周りはただ山と田んぼが広がるばかりだ。自然に囲まれた祖母の家は日当たりも良く、遊びに出かけては庭が見渡せる縁側で昼寝をしたものだった。
祖母はいつもひじ掛け椅子に座りにこにこと笑っていた。私が祖母の商売道具である白粉で床を汚して悪戯をしたり、金髪が美しい西洋人形の髪の毛をおかっぱ頭にして遊んだりしても笑って許してくれる、そんなおおらかな人だった。
その祖母が死んだ。死因は分からないが、とにかく急な報せだったので家族みんな驚いたことだけは憶えている。住む人がいなくなった家というのは朽ちるのが早い。なるべく早く遺品整理をすべきだったのだろうが、私たちはなかなか手が付けられずにいた。
ある日のことだ。ようやく手が空いた私は、祖母の家に赴いた。その日はあいにくの曇り空で薄暗く、前日降った雨のせいかじめじめとしていた。玄関まで続く道も雨でぬかるみ、足で踏みしめるたびに、にちゃ、と嫌な音を立てる。私は玄関の引き戸に手をかけ、中に入ると早速書斎へ向かった。
書斎、と呼ぶほど立派なものではないが、そこには本棚や祖母が集めた西洋人形やこけし、使わなくなった衣類がそのまま投げてある。どこから手を付けようかと思案していると、その中に今まで見たことがない大きな椅子が部屋の隅に置いてあった。部屋の明かりを点けようとするが、ブレーカが落ちているのか点かない。私は薄暗い部屋を椅子の方へ近づいた。
その椅子は、血色のいい人間の肌艶のような色をしていた。私は祖母がそんなものを買った、と聞いた覚えはない。こんな椅子はこの家にはなかったはずだ。私は怪しみながらもその椅子の肘掛に手を伸ばした。触れてみると、まさに本物の人の二の腕のように柔らかで、体温のようなぬくもりを感じられる。
――ずっと触れていたい。
「どうやってこの椅子を持って帰ろうか?」
「どこに置こうか?」
「この椅子に毎日座って暮らせるなんて夢みたいじゃないか?」
「きっとみんな羨ましがるぞ」
そんな考えが頭の中に広がり始めたとき、どこかから、
「おーい」
という声が聞こえた。
夢想を断ち切られた私は、若干の腹立ちを覚えながらも椅子から立ち上がり、「今行くよ」と声を出しかけて止まった。
私はこの家に一人で来ている。であるならば、今の声は誰のものだったか。どこから聞こえてきたのか。外で遊ぶ子供の声だったか。それとも母が帰りの遅い我が子を呼ぶ声だったか。それとも、それは祖母の声ではなかったか――。
勢いよく立ちあがったせいで、椅子はごとん、と音を立てて倒れた。その椅子はさっきまでの魅力的な椅子などではなく、蒼ざめた死人の肌のように見えた。私はこの椅子を持って帰ろうとしていたのか? 急いで書斎のドアに向かうと、二三歩後ろで、
「おーい」
首すじに吐息がかかったかと思うほど近い場所からの声。西洋人形やこけしを踏みつけながら慌てて書斎のドアを閉める。ドアの隙間から恨めしそうなこけしの目が見えた。
それからのことはいまいちよく覚えていない。気が付くと、私は震える手で鍵をガチャガチャいわせながら、自動車に差し込もうとしていた。しかし上手く鍵穴へと入らない。見てみると、それは祖母の家の鍵だった。
……そういえば、私は玄関を開けるための鍵を使っていない。なのにドアは開いていた。
以来、私は祖母の家には近づかない。その後あの家がどうなったかもしらない。
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