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読書レビュー「渚にて」 ネヴィル・シュート

初刊        1957年
新訳版       2002年
創元SF文庫初版  2009年

あらすじ
第三次世界大戦が勃発し、世界各地で4700個以上の核爆弾が炸裂した。戦争は短期間に終結したが、北半球は濃密な放射能に覆われ、汚染された諸国は次々と死滅していった。かろうじて生き残った合衆国の原潜〈スコーピオン〉は汚染帯を避けてメルボルンに退避してくる。オーストラリアはまだ無事だった。だが放射性物質は徐々に南下し、人類最後の日は刻々と近づいていた。そんななか、一縷の希望がもたらされた。合衆国のシアトルから途切れ途切れのモールス信号が届くのだ。生存者がいるのだろうか? 最後の望みを託され、〈スコーピオン〉は出航する……。読者に感動をもって迫る永遠の名作。
(紀伊国屋書店WSより)

核戦争後の地球を舞台にした終末SFものですが、
ハリウッド映画を彷彿させるような全世界規模のパニックだとか、
略奪、暴動、逃げ惑う人々の大渋滞とか、狂気錯乱などはほとんど描かれません。
登場人物は極めて少なく、米国原潜の艦長タワーズ大佐と創元文庫1ページ目にある登場人物表のなぜか2番目に書かれているのが牧場主の娘モイラ。
おいおい!まさか恋愛ものか?と思ってしまうのですが・・。
あとはオーストラリア軍側の士官ホームズ少佐とその家族。モイラの従兄であり潜水艦の放射線測定の科学士官であるオズボーン。
米国源潜の艦長タワーズをオーストラリア海軍の士官ホームズが家に招待することになり、タワーズの接待役を近所の牧場の若い娘モイラにお願いするというくだりから始まるのですが、町も人の様子も普通で、パニックに陥ってることもなく、それどころか、ほのぼのとした雰囲気に満ち溢れているのです。
タワーズとモイラはヨットレースに出たりなんかして、まるで恋愛映画のはじまりはじまりといった様相です。
しかし、そういう人々の平静さは、次第に迫りくる放射能の恐怖におびえながらも、“努めて平常通りにふるまっている”のだということかわかってきます。
この人々の恐怖心、パニックを抑えた描き方が、終末ディザスターものの描き方として、とても新しく感じました。
って、実は初刊が1957年と!なかなかの古典作品でびっくりしたのですが。
昔の作品のほうが新しかったり、哲学的な部分や精神的な部分はむしろ今より成熟していたように思えることもあるのですよね。
そんなほのぼのした牧歌的エピソードが延々続き
中盤過ぎ、ようやくあらすじに書いてある謎のモールス信号を確かめにアメリカに行くことになり、潜水艦アクションがはじまるのですが・・・
ここから先の話は読んでのお楽しみということにしておきましょう。

反戦や反核の政治的メッセージもあまり感じません。
あくまで多くのページを割いて描かれるのはどこまでものどかな日常スローライフなのです。ホームズの妻メアリは家庭菜園に凝り、これから植える野菜が来年収穫できることを楽しみにしていたり、モイラもいつか就職する為にタイプライターの速記を習い始めたり。あと2か月程度で人類滅亡の日が来るということはわかっているのに・・・。

あらすじやら帯やらに「感動作」「SFだけが流すことのできる涙」と書いてあったのが、なるほどこういうことかと、うすうすわかってきました。
つまり登場人物たちの、終末に対峙する姿勢の話なのです。

別に核戦争がなくても人は必ず死ぬのです。
どんなに成功しようが幸せな人生を送ろうが最後は死です。
それがどんな人間も逃れようのない宿命なのです。
だから頑張っても意味がないのか?
だから夢や希望を持っても意味がないのか?
そんなことはないでしょう。
「死ぬから意味がない」のであれば、人の人生は生まれた瞬間から生きる意味などないわけですから。
いつ死期が迫ろうとも、最後の1日まで夢や希望は持てるんだと・・。
この作品の登場人物たちはみなそうあり続けます。
それは古臭い物語の中の、絵空事のように受け取る人も多いかもしれません。
解釈は人それぞれでよく、それを否定する気はありませんが・・
僕はこの作品の登場人物たちこそ、リアルな人の姿だと思うのです。
いや、自分もこうありたいと、せつに思ったのでした。

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