【目印を見つけるノート】1194. 夕暮れ野川は武蔵野の果て?(2)
さて、ひょんなことで出くわした野川から始まった、「夕暮れ野川は武蔵野の果て?」ですが、もう少し続けます。もしよろしければ前回もご参照ください。
「武蔵野」というのはどこからどこまでなのでしょうか。
前回は「武蔵野とはどの辺りか(という諸説記事)」、「野川はどこを流れている川か(引用)」、「三多摩と武蔵野の違い」というような部分を書いています。
あくまでも、私の体感のみで書いていますのであしからず。
前回も書きましたが、
武蔵野といえば思い浮かぶ国木田独歩さんの『武蔵野』を見てみます。国木田さんのいう武蔵野は私が想定していたのより範囲が広いです。
国木田さんの見立てでは、郊外の、都市でない、林や川など手付かずの自然が残るエリアをそう呼ぶようです。
東京都内とは限りません。埼玉もです。
武蔵国という区分があります。
江戸時代まで定められていました。東京・埼玉・神奈川(川崎・横浜)まで含みます。古くは鎌倉時代の武蔵七党などが有名ですが、昔からの流れですね。ドラマでもよく耳にした板東武士にもなりますが御家人の重鎮的な存在です。あれ、三浦党も板東武士だっけ🤔板東は下野(しもつけ)あるいは常陸(ひたち)辺りまで含みますから、そうでしょう。さらに大きな区分ですね。
もっと大きくなると東国武士かな。
そこらへんの呼び方はちょっとまじこじかもしれません。
鎌倉から南北朝期には武蔵国が戦場として出てきます。
二俣川の戦い(畠山重忠の乱、神奈川)、入間川の戦い(木曽義高が討たれる、埼玉)、分倍河原の戦い(新田義貞と執権北条氏、東京都府中市)などはとても有名です。
国木田さんは「武蔵野とは」の発題にまず、入間郡(埼玉)を出されています。そこが基準点なのですね。
それらを武蔵野の範囲として捉えれば、関東平野の中にある武蔵国という広い地域が該当します。ならば亀戸から小松川辺りを武蔵野と考えるのもそう不思議ではありません。
ただ、
現在、東京東部を武蔵野というと少し違和感を感じます。手付かずの自然が多い場所とは言い切れないからです。
郊外というのにはあてはまるかもしれませんが、武蔵野というには少し物足りない。以前自転車で、松戸から国府台、市川(千葉)へ江戸川沿いに河川敷を走ったことがありますが、緑の濃いところでした。そこならあてはまると思いますが。
国木田さんのおっしゃることが違うというのではなく、今はそれに該当する風景があまりないということです。
23区の東側は、関東大震災で壊滅的な被害を受けましたし、東京大空襲でも焼け野原になりました。その前にあったものが灰塵に帰しているわけです。墨田区のある地点から、江東区や江戸川区に至ると道路も歩道も公園もよく整備されていますが、それは以前あったものがなくなってしまった結果でもあるのです。
その点は書き留めておかなければと思います。
一方、
東京23区の北西を見てみると、昔のままとは言えないにしても、まだいくらか武蔵野といえるような面影があるように思います。練馬区・杉並区など市部と境を接しているところですね。それは石神井川や善福寺川に沿っての緑地があるからかもしれません。
それは私が出くわした世田谷区の野川にも言えることでしょう。等々力渓谷もそうですね。
川の話はまた書きましょうか。
さて、国木田さんの『武蔵野』をもとに書いてみましたけれど、
今回もやはりやっぱり散文雑駁ですね。
もう少し書こうかなと思います。
今日の曲です。
Clarence Gatemouth Brown『Long Way Home』
この方は、ニューオリンズの対岸にお住まいだったのですね。地図で見ると緑が多いのでニューオリンズの郊外になるのでしょうか。
ただ、甚大な被害をもたらしたハリケーン・カタリーナに見舞われておうちは全壊してしまいます。
よほどショックだったのでしょう。避難先のテキサスで逝去されたそうです。
風景は失われていくべきものかもしれません。
開発はもちろんのこと、災害ひとつでもなくなってしまう。ですので、変化することを受け止めつつも今あるものを大切にするようにしたいと思います。
それでは、お読み下さってありがとうございます。
尾方佐羽
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