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藤原定家が羨む「猫の恋」

【スキ御礼】芭蕉が絶賛した「猫の恋」

芭蕉が絶賛した越智越人の句

うらやましおもひ切時きるとき猫の恋

この句は、藤原定家の歌を下敷きにしているとされている。
その本歌となる定家の歌は、文献によって異なっている。

羨まし忍びもやらでのら猫の妻ひ叫ぶ春の夕暮 
(類船集)

真蹟去来文にも「越人も定家卿のの恋の歌により候て・・・。思ひ切るときを羨みたるは越人が秀作と奉存候」という。

新 日本古典文学大系『芭蕉七部集』岩波書店  2017年

その意は、
「のら猫はけものの本能に従って欲情のままに妻を恋い叫んでいる。うらやましいことだよ。」(吉田美和子『うらやまし猫の恋』)

もう一つの本歌は、
うらやまず臥すの床はやすくとも嘆くもかたみ寝ぬも契りを (拾遺愚草)

また浪化あて去来書簡(元禄七年五月十三日付)に、去来は古詩・古歌による句作は、風情も風姿も原作よりは一段と「せめ上げて」新しく詠まないと手柄はないとし、「越人も定家卿のの恋の歌により候て」とこの句をあげ、「おもひ切る時をうらやみたるは、越人が秀作と奉存候」と記している。

日本古典文学全集42『近世俳句俳文集』小学館 1972年

「猪は寝床は安っぽいけれどもそれを不満に思うことはない、猪は悲しみに泣きながらも、かわるがわる寝ることになっても男女の契りを交わすものだだ。」という意味だろうか。

本歌とされる定家の歌は、去来の真筆とされる同じ書簡を根拠にしているはずが、それが「猫」と読むか「猪」なのかによって異なっている。

定家の歌は、前者では、思いのままに恋を叫ぶことができる猫を羨んでいる。
後者では、簡素な寝床で契りを結ぶ猪を羨んでいるようである。

いずれにしても、去来は本歌を取るならば、原作よりも「せめ上げ」て新しく詠まないと手柄にはならないと言っている。

一方で、越人の句は、きっぱりと恋の思いを断ち切ることができる猫を羨んでいる。
その意味では、本歌はどちらであっても越人の句は真逆のことを言っていて、その点を評価されているようだ。

現代の句作においても、「本歌取り」には同じことが言えそうだ。古典を引用して風流を気取っているだけではだめなのだ。

(岡田 耕)

*参考文献(引用のほか)
吉田美和子『うらやまし猫の恋』木犀社 2008年

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