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ミス・サイネリア


若い頃、ある一時期だけ文通をしていたことがある。

期間は2年くらいだったかな。相手は1歳年上の高校の先輩で、その先輩が大学1年生、つまり僕が高校3年生の頃に文通をはじめ、僕が成人式を迎える前には終わってしまったと記憶している。

相手の名前を便宜上、「C先輩」と書こう。

文通を始めたきっかけは僕からだった。
先輩に「文通しませんか」という旨の手紙を送ったのだ。
理由はいくつかあったが、主には、高校在学中から仲が良かったこと、文通をテーマにした邦画を観て憧れを抱いたことが挙げられる。そもそも文通という古き良き交流に憧れなかった昭和生まれの人はいないと思っている。

C先輩は快活な性格かつ誰に対しても親切で、また美人なこともあり、校内で人気者だった。部活は声楽部に所属し、高校2年生からの選択進路では理系コースに進んだ女子生徒だった。


会話するようになった端緒は、その理系クラスの同級生に僕が所属していたラグビー部で仲の良い男の先輩が数名いて、その先輩らとC先輩の仲も良かったという関係性の土台がまずあった。その上で、僕が高校2年生の文化祭で上映した自主制作映画が学校中で大好評だったことから、にわかにヒーロー扱いになった僕に話しかけたい人が続出する中、その内の一人にC先輩も含まれており、ラグビー部の先輩を交えて「Cがお前の映画褒めているぞ」と話しかけられたのが最初だった。こう書くと、なんというイキリ懐古大明神が現れたもんだと思うかもしれないが、本当に講堂を笑い声で揺らしたんです。芸人の言う「ハコが揺れる」とはこういうことかと。あの笑わないことで有名なF教頭まで笑ったという伝説があるんです。どうか信じてください。

とまあ、そのような経緯があって、僕が高校2年生の秋、C先輩が高校3年生の秋という、卒業までそう遠くない時期に、顔を合わせれば話をする仲になった。そう、C先輩とは決して長い付き合いではないし、そんなに親しい間柄というわけでもなかった。それが文通相手としてちょうどよかったのかもしれない。

ただ、例えばラグビーの部活中、外周ランニングで校外を走っているときに下校中の先輩とすれ違うと笑顔で「がんばってね」と手を振ってくれるし、校内のグラウンドで練習するときには声楽部の教室から「おつかれさま」と声をかけてくれたりもした。そんなことを思い返すと、なんだか急に懐かしい気持ちになってきた。心の中のイキリ懐古大明神が暴れ出している。

とはいえそれ以上の発展はなく、年が明けて3月になると、C先輩は高校を卒業していった。卒業式では一緒に写真を撮った思い出があるくらいで、特別なイベントはなにも発生しなかった。


そうして自分が高校3年生となり日々を忙しく過ごす中で、前述の通り、ある一本の邦画を観たことを契機に文通というものに興味が持った。ある映画というのは『恋文日和』という作品で、当時ファンだった中越典子や小松彩夏、村川絵梨といった若手女優がオムニバス形式で主演を務めていて、完全にタレント目的でビデオショップでレンタルしたのだった。内容はきわめて平凡なものだったが、18歳、思春期男子の動機となるには十分なチカラを持っていた。


ジョージ朝倉氏の漫画が原作で、何度か映像化されてるんですね


「よし、C先輩と文通しよう」

そう心に決めたのは、映画を観た夏の終わりだった。文通相手の候補を思い浮かべたとき、自然と彼女しかいないと思った。そして1通目の手紙を送ったのは秋のはじまりだった。


時候の挨拶を皮切りに、元気でいるか、街には慣れたか、友達できたか、勉強はどうか、なぜ手紙を送ろうと思ったか、よければ文通しないか、そんなことを書いたと思う。下書きを隣に置いて慎重に、文房具屋で揃えたレターセットの便箋に丁寧な字で書き綴った。1通目を郵便ポストに投函する手が少し震えたのをよく覚えている。

ここで、どうしてC先輩の所在とその住所を知っていたかを説明する必要があるだろう。

先輩が高校を卒業する前に進路を聞いたことがあった。大学にいくと答える彼女の進学先は、当校卒業生の多くが進む東京の大学で、なおかつ全寮制を敷く学校だった。そのため、学部と学年と名前さえわかれば適当に大学の住所に送っても届くだろうと高を括ったのだ。実際、何事もなく届いた。

1通目の手紙を投函して2週間くらいが経った頃、待望の返信が届いた。それまでの間、毎朝毎夕、自宅のポストを何度も開け閉めしては手紙の不在を確認する作業が続いていたが、DMハガキや回覧板に混じって、僕宛ての淡いブルーの封筒の裏面にC先輩の名前を見つけたときは、嬉しさのあまり庭先でジタバタしたものだ。

お元気ですか、びっくりしちゃったよ、でも嬉しい、元気にしているよ、寮生活も楽しいし、友達もできたよ、君もそろそろ卒業だね、進路はどうするの、私でよければ文通しましょう、よろしくね。そんな言葉たちが、読みやすい綺麗な字で、美しい便箋に綴られていた。

そこから約2年の間、月に1〜2回往復するペースでやりとりは続いた。送った手紙も、届いた手紙も、20通以上あったと思う。在学中は知り得なかった家族のこと、身の回りの変化、将来のことなど、いろんな話をした。先輩の誕生日には、誕生花である青いサイネリアを買ってきて、押し花にして封入したりもした。その時のサイネリアの青さを今でも懐かしく覚えているので、本稿のタイトルとした。なんか秋元康が書いた乃木坂46の新曲タイトルみたいで嫌だけど。


さて、本日は2022年2月14日。バレンタインデーだ。

なぜこの思い出をわざわざ今日投稿したかというと、文通中に迎えた19歳のバレンタインの日に、わざわざクール便でチョコレートを贈ってきてくれたことがあり、それが今までもらったどのバレンタインチョコよりも一番印象深い思い出だからである。一番嬉しかったとも言い換えられる。バイト先に持っていって、同僚に自慢して回ったくらいには嬉しかった。届いたのは銀座三越の高級アソートチョコレート。都会の味がした。


そんな初々しく楽しい思い出が詰まった文通も、あっけない終わりを迎えることになる。ある日届いた手紙で、先輩から改めて文通を始めようと思ったいきさつを聞かれたことがあった。

「どうして君は私と文通しようと思ったの?」

いま思えば、幾度となく文を行き交わし、誕生日には誕生花の押し花を、バレンタインにはチョコレートを贈る仲になっていた二人の関係を進展させるためのきっかけ作りだったかもしれない。ただ、この質問は特になにかを引き出そうとしているわけではないと考えた当時の僕は、本当の理由を正直に話すことにしたのだ。C先輩と文通を始めた本当の理由。それは、


「片思いしている同級生の子に、ラブレターを書く練習がしたかったからです。」


僕はバカだった。どうしようもないバカだった。ただ、これは真実だった。

先輩と仲良くなりたくて文通したのは本当だし、『恋文日和』を観て文通を始めたいと思ったのも本当だ。しかしすべては好きな子に、高校の入学式で一目惚れして以来ずっと片思いしてきた同級生の女の子に、卒業式に、ちゃんとしたラブレターを渡したかったからなんだ。恋をしていたんだ僕は。

先輩からの返信はいつもより遅く届いた。内容はおぼろげだが、とても残念がっていたのだけは確かだ。そして文通はこれきりにしようという言葉で結ばれていた。それ以来、先輩から手紙が返ってくることはなかった。


大切な文通相手を傷つけてまで本心を書く必要はなかったと今でも反省している。もし書くにしても、もっと別の言い回しがあっただろう。後悔しているし、申し訳なく思う。

しかも結局、片思いの相手に、高校の卒業式(2016年)で手紙を渡すことはできなかった。渡せなかったので、年明けの成人式(2018年)に改めて渡そうと思っている、そんな話も手紙に書いた気がする。(今さらだけど、文通していた期間は2015年の秋から2017年の秋にかけてですね)

こうして文通の幕は閉じた。なにか奇跡でも起きれば映画のひとつにでもなるのだが、現実は『恋文日和』のように甘くはない。この話を書くにあたり先輩の名前をネットで検索してみたところ、知人らしき人物のSNS投稿がヒットした。どうやら先輩は数年前に結婚して、とても幸せにしているようだった。


C先輩、あのときは本当にごめんなさい。
勝手ですが、文通相手になってくれてありがとうございました。
2年間すごく楽しかったです。どうぞお幸せに、お元気で。




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