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ヴィム・ヴェンダース『PERFECT DAYS』 レビュー

形とは様々なかたちとして表れる。内―外を隔てる境界線、光―影のコントラストによるシルエット、そして常時性。寡黙な男は機械化された日々を淡々とこなし、固定化された時間変化の中、その時間概念を沈黙により、外界を遠ざけることで捨て去る。ルーティン化すること=ハビトゥスは自己を閉ざすこと、潜勢力を保存し続けることによって達成される。

「ハビトゥスは己を持するあり方なのである。ハビトゥスは身体に沈澱し、意識に上がらないようになって、〈かたち〉として定着する。ハビトゥスが意識に上らずに、現実化するためには、潜在性の座が必要であり、その座が身体なのである。ハビトゥスとは、「身体の技法」なのだ。」(1)

身体によって成される透明な〈かたち〉、身体の自由度を自己の意思で束縛することによって生じる小さな天使、この天使の存在を映画という断片化されたイメージによってモンタージュし、伝達可能性の領域を押し広げる存在が平山である。

「そう、彼は天使でもあり木でもあるんだ。私は魂を彼らに捧げている」(2)

撮影され、記憶の内省に表れる葉と葉の隙間から溢れる光のイメージ=木漏れ日、陰影の形は、慣らされた生活の中に包摂された偶然性、賭け、日常/非―日常の交流によって生じる一筋の稲妻のイメージと重なる。まさに彼は沈黙によって天使に一枚の布を被せているのだが、口を開くことによって暴露されたその〈かたち〉は開かれた時間の流れに乗って逃げていってしまう。ベンヤミン的なイメージの弁証法が〈過去―現在〉の断絶の飛躍によって生成される特異点であるならば、この映画によって生成されているイメージの特異点は、日常という透明化された事物が両義性によって生じる時間的な場の裂け目であろう。そして、逃げ切ったその先に嘔吐の産物としてハビトゥス化された自己≠私が還元されていく。

「(前略)―つまり、試しにイメージを一枚の樹皮と考えるなら、一つのイメージが一枚のコート―衣装、ヴェール―であると同時に一枚の皮膚、すなわち命をもって現れる表面、苦痛に反応し、死へと定められた表面になるのである。―(中略)―それは表面でできたもの、木から切り取られ、採取された繊維素の断片でできたものであり、そこに言葉とイメージが集まってくるのだ。それはわれわれの思考から落ちてくるもの、書物と呼ばれるものである。そしてそれは、われわれが皮を剥ぐ行為から落ちてくるものであり、ともにモンタージュされ、フレージングされるイメージとテクストの表皮である。」(3)

非―日常は常態化した〈かたち〉から剥がれ落ちた表皮であり、平山に惹きつけられ、彼を引き裂く者たちは鳥のように表皮を引き剥がしていく。また剥がれ落ちていくイメージはユベルマンが述べるように死へと近づくイメージ―日めくりカレンダーを捲るような―と共鳴している。そして同時に天使でありながら木でもある彼の人間性が露出されていく。特に前傾に照らされていた光が家族関係によって過去を照らす場面はまさにベンヤミン的なイメージの瞬間であり、そこを特異点として世俗と断絶されていた彼の人間性が最終場面の涙によって徐に映し出される。

「一人の天使が空に現れる。それは、夜の深さと暗さを備えた光り輝く点に他ならない。彼には内的な光の美しさがあるが、捉えがたいほど微かに揺らめきながら、その天使は水晶の剣を高く掲げ、剣は砕け散る。」(4)

彼は定められた生を実行しているのではなく生に包摂された死に擬態している。それは彼の仕事からも読み取れる。視界に映り、見えていて見えていないもの、まるで全ての行いがなかったかのように浄化されていく。社会的に透明化し、死に擬態すること=天使として生きること、彼の身体は不浄ではない、彼を蔑む他者の認識が不浄なのである。
踊る死者。アミニズム的な祈りが木漏れ日によって彼の目に反射する。平山自身の影であり、恍惚さを覚える。ホームレスもまた木=天使であり、〈かたち〉の伝達可能性のイメージを押し広げる存在であるのだ。

クラインの写真集には無数の視点が同時に存在していて、断片的な被写体が分裂状態で、平面的に羅列され、併置されて現れる。そこでは私的な遠近法(パースペクティブ)が廃絶され、無数の断片的映像が反構成的に構成されて現れる。無限に動き続ける視線が提示する無数の視点の移動とともに、世界は「刻々と姿を変える、流動し、変貌してやまぬ星雲に変形される」。(5)

彼は木漏れ日を撮影するとき、その偶然性を中立的な、主体性を捨て、一人の人間であることをやめ、自然のなかに自己を投企している。その中で彼は生きているのか?いや自然という全体性の中で生きながら、死に続けているだろう。眠りの回想シーンに表れる動きのある影は死によって息を吹き返した生命だ。シャッターは偶然落ちてきた天使の外側、<かたち>が死ぬ瞬間を、時間的断面を切り落とすことによってノスタルジアの結晶として生成する。
姪を撮影するとき、彼はファインダーを真剣な眼で覗く。そのとき、彼は一人の人間であって撮影者-カメラ-被写体の連関の最中に取り込まれている。この人間性の発露が彼を惑わせる。彼女を写す肉眼とカメラの間のズレはまるで自らと社会の隔たりを閾ではなく、差異として貶める。(6)

光によってもたらされるイメージとはなんであろう。神の次元へと伸びた影、そこには自己から切り離された<私>が裸体で、恥ずかしげもなく、力なく横たわっている。私はそれを見て呆れている。吐き気は不安感から生起される時間の光ー希望ーが生成する私の影と神の影が一致していないことによる恐怖、絶望の表れである。眼を開け、死に行く生と見つめ合うとき(今この瞬間かもしれない)、我々は何を感じるのだろう。

日々は奇跡であふれている。
私たちがそれに気がつかないだけで。(7)


文献

(1) 山内志朗『新版 天使の記号学―小さな中世哲学入門―』、岩波現代文庫、p. 164

(2) SWITCH 12 VOL.41 NO.12 DEC. 2023 『すばらしき映画人生! ヴィム・ヴェンダースの世界へ』、スイッチ・パブリッシング、p. 52

(3) ジョルジュ・ディディ=ユベルマン「樹皮」『場所、それでもなお』江澤健一郎訳、月曜社、p. 114―115

(4) ジョルジュ・バタイユ「友愛 Ⅲ天使」『有罪者』江澤健一郎訳、河出文庫、p. 43

(5)江澤健一郎 『中平卓馬論』、水声社、p. 32

(6)岡田温司 『アガンベン読解』、平凡社ライブラリー、p. 32-45

(7)前出(2)p. 17

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