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あなたは、タオルに感謝したことありますか?

僕の彼女は、タオルを洗ってから捨てるらしい。

先日家に行くと「タオル変えたんだ」と言われた。
見ると、新しいタオルが干してある。

そして古いものは丁寧にたたまれて、床に置かれていた。

「え? 普通タオルって洗ってから捨てるよ?」

こういうところがあるから、人間って面白いなあ、とおもう。

僕はタオルを捨てるとなると、汚いところぜんぶを掃除して、汚れをすべて繊維に抱き込んでもらったまま、送り出すに違いない。

「だって物には、心があるんだもん」

彼女の口調には、揺るぎないものがあった。

その考え方に、いちゃもんをつけたと思われたくなくて、そのことは深掘りしなかったけど、よく考えたら興味深いことを言っている。すごく。


物の心という概念を信じるとすれば、いったいそれはどこからやって来るんだろうか。

例えばこのタオルの場合、毛糸みたいな状態のときには、もう心はあるのか。それとも、編まれて長方形の形になったときに、付与されるのだろうか。

仮にその心を信じたとして、きれいな状態で旅立つことを願うタオルがいれば、汚いところをすべて拭き取り、自分の仕事をまっとうした後、戦場に散る兵士の如く、傷だらけになって役目を終えることを本望とする誇り高きタオルもいるはずだ。

ひとつ断っておくが、僕は彼女の価値観の矛盾を炙り出して、バカにするためにこういうことを言うのではない。

「面白い考えだな」と思ったからだ。

自分にはない価値観。自分では出せない答え。僕はそういったものに目がないのだ。

だからそういう考え方を前にすると、どうしても理解したくなる。理解できるまで、訊いてしまいたくなるのだ。


「感謝だよ」と彼女は言う。
「今まで体をきれいにしてくれて、ありがとうっていう」

なるほど素敵な答えだ。僕には、感謝が足りていないのかもしれない。いや、彼女と僕の感謝の表現が違うのかも。

彼女にとってのタオルは『お世話になった人』なのだ。

それなら、僕にとってのタオルはさながら『戦友』だろう。

決して裕福とはいえない生活を乗り越え、苦楽をともにし、もう柔軟剤で洗濯してもふわふわにならなくなった僕の『戦友』。

もしかしたら捨てるのではなく、庭に埋めて、そこにロングソードでも突き立ててやるべきかもしれない。

まあとはいえ、うちのロフト付き賃貸マンションにそんな事ができるスペースはなく。ロングソードもない。

だから試しに、彼女の家のバスマットに日頃の感謝を伝えることにした。

「いつもありがとう」

バスマットは、ただ黙ってその言葉を吸い込んでいくだけだった。


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