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或るありきたりな物書きの夕べ

頭が重かった。

眼球の裏に、ざらざらした粗い砂が詰まっているような頭痛がしていた。

僕という砂時計は寝ている間にひっくり返され、頭に溜まっていく砂の重みで何も考えられなくなっていた。

風邪をひいたのだ、と気づいた。


今朝からほんのすこし、気怠さを感じてはいた。

でもそれは午後になって本格的な不調になっていた。

雨のせいだろうか、などとぼんやり考えながら、その日の執筆作業をなんとか終わらせた。

幸い、今日は休みだったので、外に出なくてはいけない用事もない。

いや、ひとつだけあった。

僕は知人のTさんのメッセージ画面を開き、その日誘われていた鍋パーティへ参加できない旨を伝えた。とても残念だった。


そのあと、心細くなって彼女に何度かメッセージを送ってしまうと、本当に何も考えられなくなった。

もう一文字だって、書くべき価値のあるものは浮かんでこないように思えた。

「だめだ」

僕は無理やり読もうとしていたレイ・ブラッドベリの文庫を片付け、PCと部屋の電源を落とし、ロフトによじ登り、毛布を引っ張り出して、それにくるまった。

ただ寝るためだけの場所になっているロフト。そこには何もなく、僕は独りぼっちだった。


明かりを消した部屋は空洞だった。

しかし、横になってしばらくその空洞を感じていると、僕の意識に浮かんでくるものがあった。

そしてそれは書き留めておかないと、後悔する類のものである気がしてならなかった。

「いや、これは後で見返したら全然大したことないものに決まってる」

僕は自分にそう言い聞かせた。

「今は休まなきゃだめだ」

しかし、そのアイデアの先触れのようなものは消えてくれなかった。

それは、まるで暗闇の中のうさぎみたいに、じっと僕をみつめていた。


「わかったよ」

僕は体を起こした。

頭の重みも一緒についてきた。

僕はシャワーを浴びたり、トイレに行ったりするときのことを思い出していた。

人間、書いてはいけないときほど、書きたいものが浮かんでくるものなのだろうか、などと考えた。

明かりをつけて、ロフトを降り、机に向かって頭の中のものを書き出していった。

「なにか、できそうだ」

ノートの上に羅列された文字列が、僕に何かを語りかけている気がした。

僕はその言葉を、残らず書き留めようとした。

けれどもその言葉たちは、古いラジオから聞こえる音声のように曖昧で歪だった。


「もしかしたら、また何か浮かぶかもしれない」

僕はノートとペンを握って、ロフトに登った。

明かりをつけて、それが訪れるのを待った。

しかしそうして身構えていても、一向にそれは現れる気配がなかった。

「もう寝ようかな。電気を消して、っと。……今なにかすごいアイデアが浮かんだら、書く前に忘れちゃうかもなあ。残念だなあ」

僕は空洞に向かって話しかけていた。

空洞は沈黙をつらぬいた。

あきらめた僕は、潔くまどろみに身をゆだねた。


夢をみた。

ものすごく素晴らしく、ものすごく愉快で、それでいてものすごく悲しい夢を。

目が覚めたとき、僕はすぐさまペンをとった。

「この感動を残しておこう!」

自分の中の狂喜につき動かされるままに、明かりをつけてノートを開いた。

しかしその眩しさのなかに、書くべきものはひとつもみつからなかった。




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