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「いただきます」の宗教性

昨晩、就寝前、意識も暮れなずんんでいくなかに読んでいた本で、日本人は宗教性を日常生活の裡に無意識に溶け込ませて生きているという論旨の説明をしていて、「いただきます」を思い出した。

確かに我々は「いただきます」を何気なく用いる慣習を生きているが、元々は仏教徒の習わしであったらしい。そんなことを調べていた時の記憶が茫々と甦ってきたのである。

一般にいわれるように、「いただきます」は、その料理を作ってくれた料理人、その素材の生産者、その素材なる生命、またそれらを生み育てた大地、ひいては豊穣をもたらしてくれた神々への感謝を意図する。

また、「いただきます」は、「いただく」という「もらう」の謙譲語に「ます」という丁寧語を付与した形で、料理というのは、自分以外の人間・自然(+超自然)からの賜りものだという思想、また料理をくださった料理人・生産者・大地を敬う姿勢を映し出している。

このように「いただきます」は、人のみならず、あらゆる生命、大地への畏敬を表す。これは、「草木国土悉有仏性(草木や国土までもすべてが仏になれる可能性を有している)」を考える仏教の感性や、アニミズムを基軸とする神道の感性と照応している。

では、「いただきます」を唱えることは宗教的儀礼なのか、というと、我々の実感からすると、文化的慣習と言った方が適切に感じられる。

だが、客観的にみると必ずしもそうではらしい。外国人からみると食前に「いただきます」と言うのは、宗教的儀礼のように映ることがあるようなのだ。

例えば、外国人が手を十字にかざして「アーメン」と唱えているのを、我々日本人から見れば、それは明らかに宗教的意味合いを孕んでいる。しかし、「アーメン」もまた、良いことが叶ったことを神に感謝するための言葉、あるいは、よく計らってくれるよう願う言葉であるから、「いただきます」と意図する内容に大きな相違はない。

「アーメン」と「いただきます」の相違を見出そうとするならば、その意図は等しいため、それを意図する人間の態度を見る他ない。そうすると、「アーメン」を唱える人はほとんど必ず神を思って言っているであろうが、「いただきます」は実際に感謝を思って言うというよりかは、慣習に倣って言っているという感じが強い。

この機微な差異が、文化的慣習と宗教的儀礼とを峻別させしむ十分な根拠となり得るだろうか?

私には、宗教的価値観が私達の生活に染み付いているように思われる。

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