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コーヒー日記⑦

遠くの関心事と近くの課題

ものすごく遠くにあるボンヤリした関心事とものすごく近くにある課題を大切にする。その間のことはなかなか思うようにならないと分かっておく。かなり人生論的な話ですけれども、これが今日、僕が若い人たちにお伝えしたいことの一つです。

國分功一郎著 『目的への抵抗』

わたしは昔から環境問題にボンヤリと興味があります。そして現在は、しがない理学療法士でありながら、誰に頼まれたわけではなく、望まれたわけでもなく、”新しい働き方を提示する”、”環境と調和した働き方を模索する”といったかなりボンヤリとしたビジョンを胸に秘めながら、ささやかな活動をしています。

現在は、何事にパキッとしないと許されないような世の中ですが、そんな世の中だからこそ、ゆるっと、ボンヤリと描くビジョンを心の片隅に置いておくことが重要なのかもしれません。

好きと憧れ

言わせてもらえば、僕はとにかく何がなんでも外国に出て仕事をしたがる、いわゆる『クリエイティブな人種』が大嫌いなんだ。

サリンジャー著 『フラニーとズーイ』

仕事をするうえで、好きと憧れは区別した方法がいいように思います。

「憧れ」で仕事をすると、だいたい失敗します。

理学療法士の業界でいえば、「○○病院は大きくでリハビリで有名だから、そこで働きたい」といった思いで就職・転職することが例として挙げられます。

そうではなくて、自分は何が好きなのか、もっといえば、自分は何をしたいのか。
それが大事なんじゃないかと、最近は反省の意味を含めて思います。

小説を読むことと、もう一人の自分

わたしは普段あまり小説は読まず、哲学やビジネス、心理学関連の本ばかり読んでしまいます。

ですが、先日久しぶりに小説を読んで、はっとしたことがあります。
それは、小説を読んだあと、普段の生活の中に「もう一人の自分」がいることです。

サリンジャー著 『フラニーとズーイ』という小説があります。
古典となっていて大変有名ですので、小説好きなら皆さん知っている小説なんだと思います。

わたしは、尊敬する山口周さんがお薦めされていたため、この本を知りました。
やや難解ではありましたが、登場人物の「ズーイ」に、大変共感と好感を覚えました。

この小説を読んで間もないということもありますが、ここ最近は生活の中で嫌なことがあると、わたしの中の「ズーイ」が、優しく(時に厳しく)励ましてくれます。
何か迷うことがあったときに、意識的に「ズーイ」に意見を求めると、割と心の平穏が保てます。
おそらく、セルフコンパッションにおける、「自分に優しい気持ちを向ける」効果があるのでしょう。

小説だと映画などの映像コンテンツより、きっと想像を膨らませながら読んでいくので、「もう一人の自分」として小説の登場人物を置くことは、案外理にかなっているのではないかなと思っています。

30歳を過ぎて今更かもしれませんが、様々な小説を読んでみようと思った次第です。

君に今できるただひとつのことは、唯一の宗教的行為は、演技することだ。

サリンジャー著 『フラニーとズーイ』

広げる時期と狭める時期

人生というものは詰まるところ、単一の窓から眺めたときの方が、遥かにすっきりして見えるものなのだ。

スコット・フィッツジェラルド著 『グレート・ギャッツビー』

人生には、様々な見分を広める時期と、インプットの量と内容をある程度狭めて、アウトプットとのバランスを調整する時期があるように思います。

「人生とは何か」という、誰もがきっと心の奥底で抱えている哲学的な問い。
その答えは、様々な知識を吸収し、その後それらをぎゅっとしたときに、各々にみえてくるものなのかもしれません。

目を合わせるということ

目が合うということは、人が人として存在するということに関わる。

村上靖彦著 『ケアとは何か』

先日、上記の本を読みましたが、この言葉にはっとさせられました。
案外、利用者様の目をしっかりと合わせていなかったなあと。

で、意識して合わせてみると、今まで気づかなかった些細な表情の変化に気づく、ような気がします。

村上先生も繰り返しおっしゃっていますが、医療って、構造上どうしても目の前の患者様、利用者様を「モノ化」してしまう傾向にあります。

目を合わせてコミュニケーションを取る、というあまりにも些細な意識付け。
産まれたばかりのわが子には、意識なんかしなくったって自然と目を合わせたくなります。
何故だろうって考えたとき、ーまあわが子に対しては単純に可愛いっていうのがありますがーそれは、コミュニケーションができているという「思い込み」からきているように思います。

目を合わせなくても、言葉を交わすことはできますね。
でも、果たしてそれはコミュニケーションなのか。
わが子はまだ、言葉を話すことができません。
だがら、この子は今なにを思っているのだろうかと、じっくりと観察します。

コミュニケーションは、言葉、表情、全身からの表現です。
言葉=コミュニケーションではありません。
だから、目を合わせる。
自然とできなくなっているのなら、まずは意識してやってみよう。
医療従事者として、理学療法士としてではなくて、人間として、生物として。

器械化が進んでいるゆえに、このようなモノ化に抗って、あえてコミュニケーションを取る努力、患者の生命を直接感じ取ろうとする努力が必要になる。医療技術のなかにコミュニケーションを目指す意思が加わったところで医療的なケアが生まれる。

村上靖彦著 『ケアとは何か』

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