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コーヒー日記⑧

『コーヒー日記』は、わたしが自家焙煎したコーヒーを飲みながら、備忘録としてゆる~く書いた日記です。

エキスパートになるということ

ケアを専門職にされている方々にとっては極めて逆説的なことなのだが、エキスパートになればなるほど、専門知識と専門職としての立場をいったん括弧に入れるようになるという。

村上靖彦著 『ケアとは何か』

わたしは理学療法士として、デイサービスに勤務しています。
この、理学療法士を括弧に入れることで、今までと違った視点でみえてくることがある、ということです。

知識・経験がある場面において、邪魔になることもあります。
こうしたものを、適切に場面で括弧に入れること。これは、アンラーニングとも似ています。

アンラーニング(unlearning)は学習棄却ともよばれ、持てる知識・スキルのレパートリーのうち有効でなくなったものを捨て、代わりに新しい知識・スキルを取り込むことを指します。

わたしたちは人間関係でも知識でも何であっても、得たものは手放したくない。執着してしまう。だからこそ、上手に手放す技術、括弧に入れる技術が大切なのだと思います。

人生の最期に「関心」を寄せる

なぜなら彼に少しなりとも関心を抱いている人間は、僕のほかにいなかったからだ。ここで言う「関心」とは、人はたとえ誰であれ、その人生の末期において誰かから親身な関心を寄せられてしかるべきだという意味合いにおいての関心のことである。明言されておらずとも、それは人たるものの固有の権利ではあるまいか。

スコット・フィッツジェラルド著 『グレート・ギャッツビー』

最近は、『ケア』に関する本を読んでいます。
思い返せば、新卒時には急性期病院に勤務し、リスク管理について色々と勉強し、経験しました。その後は回復期病院に勤務し、治療技術に関して、まだまだ未熟ながら勉強・経験しました。

そしていま、デイサービスで働いています。
まずカルチャーショックだったのが、「治療」という言葉をほとんど使わないということです。
「治療」ではなく、「支援」。
治療と支援って、何が違うのだろう。その明確な「答え」はわたしにはないし、交わり合っていることだと思います。
両者に通底していて、尚且つ「治療」の側面において価値が低く見られがちなもの、それが「関心」なのではないかと思います。

わたしが勤務するデイサービスでは、いわゆる「人生の末期」に相当する方との関わりも多いです。
フィッツジェラルドのいう「親身な関心」とは、その人そのもの、アタマ・ココロ・カラダ全てに関心を寄せるということだと思います。
カラダに「関心」が集中しやすい理学療法士だからこそ、このことを意識する。
これは、いくらでも強調すべきことですし、内省を込めて定期的に綴っていこうと思います。

パッションではなく、コンパッション

私たちは、「この人のことが好きだ」と思うと、その状態を継続したいと強く願います。これは、愛情というより欲求です。そして、いったん手に入れると、得たものを手放したくなくなりますが、これを執着と言います。

有光興記著 『自分を思いやる練習』

人間関係のみならず、仕事や趣味に対しても、「パッションではなくコンパッション」精神をもてるといいと思います。

一言でいえば、パッションは情熱で、コンパッションは愛情です。

パッションは、瞬発的に物凄いパフォーマンスを発揮できます。パッションのエネルギーの源泉は欲求であり、執着です。だから長続きはしません。一方コンパッションは、相手や物事に対する無条件の愛情であり、リスペクトです。

わたしが細々と続けている『コーヒー日記』もーコーヒーに関連のないことがほとんどですがーコンパッション精神だからこそ、楽しく書くことができています。
書くこと、表現することそのもの対する、愛情・リスペクトがありますし、忘れないようにしています。

『パッションではなく、コンパッション』
なんとなくこの言葉のリズムが好きで、ゆる~く書いてみました。
何かに行き詰ったとき、思い出してみるといいかもしれません。

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