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コーヒー日記⑨

『コーヒー日記』は、わたしが自家焙煎したコーヒーを飲みながら、備忘録としてゆる~く書いた日記です。

脱・統治者思考

「働く意思のない人を税金で救済するのはおかしい」というような学生の授業コメントを読んでいて気になるのは、彼らが統治者の視点に立って語っていることである。国事を決定する権力の視点から「善悪」を判断する。学生は統治者になり代わって思考しているのだが、実はそれは国家権力の論理に思考を乗っ取られてしまっているということである

村上靖彦著 『客観性の落とし穴』

上記の一節を読んで、はっとする方も多いのではないでしょうか。
わたし自身、はっとしました。

統治者思考になってしまう要因には、承認欲求や過度な自尊心が見え隠れしているように思います。

でも、そうではなくて、真摯に自分と周囲の人の声に耳を傾ける。
世間がどう思うかではなくて、自分は、どう思うのか。
そういった、「草の根思考」ともいえるものを、もっと大事にしてもいいんじゃないかと思います。

名前をつけることの弊害

名前をつけることは、他と区別することです。

例えば、テーブルの上にりんごとみかんが置いてあるとイメージしてみます。
わたしたちは、「りんご」と「みかん」という名前を「認識」しています。
だから、両者は違うものであることが自明です。
でも、「りんご」と「みかん」という名前を知らなかったら、どうでしょう。
両者は、ただの「物体」でしかありません。つまり、区別する術がありません。

名前をつけることによって、人間の認識、思考をどんどん深まっていきます。
もちろんそれは良いことです。
ですが、あえて名前をつけることの「弊害」について考えてみたい。

それは、名前に「囚われる」ことです。
たとえば、わたしも一応資格をもっている、「理学療法士」という名前。
リハビリ職には、他にも「作業療法士」「言語聴覚士」などの資格・名前があります。
このように専門性をもって働くことは、もちろん良い面が沢山あるでしょう。
でもその専門性、「理学療法士」という名称、名前に囚われてしまうことの弊害も、あるように思うのです。

理学療法士の定義を、日本理学療法士協会のホームページから引用します。

ケガや病気などで身体に障害のある人や障害の発生が予測される人に対して、基本動作能力(座る、立つ、歩くなど)の回復や維持、および障害の悪化の予防を目的に、運動療法や物理療法(温熱、電気等の物理的手段を治療目的に利用するもの)などを用いて、自立した日常生活が送れるよう支援する医学的リハビリテーションの専門職です。

この定義自体は、非常に分かりやすくて、納得できるものです。

では、一方で、熊谷晋一郎著 『リハビリの夜』の一節を引用します。
熊谷先生は脳性まひの当事者でありながら現役の小児科医でいらっしゃいます。この本の中で、小学生の夏休みに行っていた「リハビリキャンプ」の体験を綴った一節です。

施設にいる大人は私の一挙手一投足をじっと見た。それは私のことを見ているという感じではなくて、何か私の気持ちの在りかとは別のところに焦点が合っているような、こちらからは関われなさそうな視線だった。きっと大人たちは、「緊張が強いな、どういう介入がよいかな」などと思いながら、私の動きを見ていたのだと思う。そんなまなざしの先で、私は体の緊張を強くして「障害児」になる。

「緊張が強いな、どういう介入がよいかな」という視点は、「理学療法士」という職業において「正しい」視点でしょう。
だって、理学療法士の定義である、「基本動作能力の回復」のための視点なのですから。
でも、その視点に囚われ過ぎること、つまり、「理学療法士」という名前に囚われ過ぎると、対象者の「気持ちの在りか」に焦点を合わせることがおざなりなってしまうのではないか。少なくとも、そういう傾向はあるように思うのです。

ですから、名前をつけること、区別することの利点と一緒に、その弊害も認識しておくことが重要なのではないでしょうか。

人生を演技する

君に今できるただひとつのことは、唯一の宗教的行為は、演技することだ。

サリンジャー著 『フラニーとズーイ』

人生を演技するとは、ヨーゼフ・ボイスが提唱する「社会彫刻」とほぼ同義です。

演技する、という表現は少しネガティブに感じるかもしれません。
また、演技することと、「ペルソナ」を重ねて考える方もいるかもしれません。

ペルソナとは、元来は古典劇において役者が用いた「お面」のことです。
スイスの精神科医、ユングは「ペルソナとは、一人の人間がどのような姿を外に向かって示すかということに関する、個人と社会的集合体とのあいだの一種の妥協である」と説明しています。

ただ、わたしの考える「演技」と「ペルソナ」は異なります。
上記の通り、「ペルソナ」は「一種の妥協」であるのに対し、「演技」とは「心のメンター」のようなものです。
誰かになりきったり、理想の自分を追い求めるのではありません。
理想を追い求める形の演技は、『グレート・ギャッツビー』のギャッツビーに似ています。

ロング・アイランドのウエスト・エッグ在住のジェイ・ギャッツビーは、彼自身のプラトン的純粋観念の中から生まれ出た像なのだ、というのがことの真実である。彼は一人の神の子供ー一般的表現としてではなくまさに字義どおりの意味で言うのだがーとして、父なるものの仕事の従事し、卑しく、けばけばしく、とどまることの知らぬ美に仕えるしかなかったのだ。こうして彼はジェイ・ギャッツビーなる人間を想像したのである。~~そのような夢想が彼の想像力にあるところまではけ口を提供してくれた。現実という非現実について、それは納得のいく示唆を与えてくれた。

スコット・フィッツジェラルド著 『グレート・ギャッツビー』


そうではなく、ここで言う「演技」とは心の中の相談役、つまりメンターを設定しておき、メンターとともに生きるようなものです。

サリンジャー著 『フラニーとズーイ』の中でズーイが語る「演技」とは、このようなものではないかと思うのです。

ちょっぴり皮肉っぽくて、繊細で。
だけれども、一緒に悩みながら、厳しく、優しく導いてくれる。

そんなズーイが、わたしの心の中に、確かに居ます。



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