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がんばりすぎのあなたへ〜さえりさんの本を読んだ シリーズ③〜

 

 予定というものは、なんにしても
いつも一気に重なり合ってきて、
怒涛の日々に追われて心が追いつけなくなってしまった後、気づいたら
いろいろなものが終息を迎える。

 仕事に限った話ではない。
仕事の時だって、
Aという大きな仕事の最中に、
Bという気を配らなきゃいけない案件が

みたいなことは起こるのだけれど、

そういう風に忙しくなったり、
一生懸命になっている時に限って、

いや、そういう仕事の忙しさ(充実)や
仕事以外でも何かに集中している時、一生懸命になっている時に限って(恋愛の話に限らず)モテる、

というのはよくある気がする。



でも、そうやって"ものすごく忙しい"
状況になってきたあたりで、
スタートしたあたりで、
あ、忙しくなってきているな、と
気付かないと、

いつか疲弊して両立できなくなったり、
心の余裕が消えて
うまくいかなくなったりする。
そうして気付けば、

がんばり過ぎたな、と思う頃には
取り返せない時間が経っている。


いつからか、
毎日がせわしなくなって

学校に、大学に、行って、
塾に通ったり、アルバイトにいって、
家に帰ってきたら寝るまで勉強したり、課題をやったりして、

気づいたら今日が、1週間が、
1ヶ月が、1年が終わっている。




学業を終えてからも、
毎日、仕事や用事におわれて、
気づけば1年、また1年。


 その時々に、
楽しかったり苦しかったり、
辛かったり嬉しかったり、
長く感じる1分があれば、
もう終わったの?え?
という1週間もあって、


時々、ちゃんと今日という日を
楽しく生きよう!なんて
意識してみるものの、
結局、気づかないうちに
就寝を迎え、
次の日を迎える。


例えば今この記事を書いている
わたしは休憩中だったり
休みの日で、カフェなどで
ゆったりとしながらあれこれ
頭を整理していられるのだが、


そういう時間みたいな、
やるべきことや仕事に追われすぎない
“暇”(=時間の余裕)を
どこかに貯蓄しておいたりして、
忙しい時に、
どうしても時間が欲しい時に、
2人に分裂したい!ってくらい
やることがたくさんある時に
時間貯蓄を切り崩して
使えたらいいのに、なんて思うけれど、
現実はそうもいかない。

こんな時に、ミヒャエル・エンデの
『MOMO』に出てくる時間泥棒みたいなのが出てきたら、
手を出してしまうかもしれない…



 なんとなく忙しなく
過ごしているうちに、
まさか自分が次の瞬間死んでいる、
だとか、明日はないかもしれない
なんてこと、忘れてしまって、
必死に仕事をしたりして生きている。

そうして、ぐったり疲れた休日を
過ごしてしまったりして…

 でも、さえりさんの本を
読んでいるときは、
思い出している時間は、
 とても優しくて、温かくて、
やわらかくて、幸せに満ちた時間を
過ごすことができる。


さえりさんの本は、どの本も
声に出して心地よいので、
疲れ切っている人は少し肩を回して
力を抜いて、ふーっと息を吐いて
それから自分の声に耳をすませるようにして音読してみてほしい。

 今回のさえりさんの本はこちら↓

夏生さえり. (2017). 『今日は、自分を甘やかす いつもの毎日をちょっと愛せるようになる48のコツ』. イラスト:オオモリチサエ. 東京:ディスカバヴァー・トゥエンティワン.


 ーおつかれさま。今日も一日がんばった自分にごほうびを用意して、ふーっと息を吐いてからこの本をどうぞ。ー (p.3)

 
そんな言葉からはじまり、
さえりさんは、この本を手に取った人に語りかける。


 ー 十分がんばっているわたしたちに必要なのは、「もっと輝く方法」ではなくて、「毎日をちょっと愛せるようになること」ではないでしょうか?ー (p.5)

 


**いつから私たちは、「輝く」ことが求められるようになったのだろう。 **


 生き生きとしていること、
常に何かに挑戦していること、
日々進歩していること…
を求められる気がする。


誰かが何かに挑戦し、
それが成功したりすると

“新進気鋭の若手○○”だとか、
“今、SNSで注目されているみんなの憧れ○○”だとか……
“ノーベル賞、日本人の誇りですね”とか

地道に何かを続けていたり、
ふと何か成功すると
急に注目されたりする人がいて。


 女性の活躍推進ですら、政府に、

家庭も仕事も両立している人が、
うまくいってる人ばかりが、
“輝く女性”だとか、“女性活躍推進”
だとかの代表として、模範として
紹介されたりして



 そうやって、
目に見える「輝き」とか、

歳を経た場合、仕事で成功した、
何かのプロジェクトを成功させたとか、

そういう人が周りに増えて
いって、自分自身も何かを
生み出し続けなければならない、
“輝き”を放つことを、どこかで
求められているような気になる。
 そして、たまにそれに
疲れてしまったり、もう嫌だなと、
思ってしまったりする。

(この何かを生み出さなければ、
という考えは、非常に、
19世紀くらいのイギリス中産階級、
という感じがするのだが、
その話は今度機会があったらしよう。)



 でも、技術が進むにつれ、
時間に追われる私たちに、

殺伐とした日常のなかで気づいたら
次の日を迎える私たちに必要なのは、


今の自分の生活の幸せを感じること
とか
自分のことを愛せること」とか
自分にとっての幸せを、
過ごせること
」とか
平和に、生きられていることに、
今持っている幸せに気づいて、その幸せを感じられる余裕
」とか
なのかもしれない。


 ー未来は、現実の先にあるもの。自分の身の回りや今を愛することができれば、おのずと愛すべき未来が訪れると思うのです。
 毎日を今より少し好きになって、自分を好きになって、そうやって過ごす先に「夢」や「なりたい自分」が待っていたら、しあわせですよね。
 そのためにも、毎日はゆるく、たのしく、ほがらかに、新しい発見を楽しみながら暮らすのがよいのではないでしょうか?ー (p.6)

 

 私たちは、すぐに忘れてしまう。
人は、今生きている自分、しか、
生きられないということを。



 高校生のわたし

 高校3年生になるときのわたしが、
常に心に留めていよう、と思いついた、そして実際、高3が終わるまで
心に留めていた言葉がある。


 「私は、
受験生である前に、1人の高校生だ」

 
 
高校2年生も終わりになると、
進学を希望する多くの人は、
「受験生」「受験が」、「大学受験が」
と学校でも塾でも家でも
街でも言われて、
“高校3年生”ではなく、“受験生”
になる。


 でも、高校3年になるときの私は、
それに疑問と嫌悪感を感じていた。


 大学受験は、しようと思えば
いつだってできるかもしれないけど、
今この歳で、この学校で、
この友人関係で、この気持ちで、
「高校生」として過ごせるのは、
今しかないんだから、
「高校生」だからできることを、
わたしは精一杯楽しむ。
「受験生」であるために、それが
過ごせないならわたしは、そんな
「受験生」生活は選ばない。


 今考えれば、まぁそれにしても、
もう少し勉強してくれ、と思うのだが
(私が受験勉強をはじめたのは、
高3の11月頃)

 そうやってすごしたおかげか、
高校生活には悔いがない。





 年々増す、緊張。

 

 そんな私も、高校を卒業し、
大学を卒業し、
文系だが大学院へ進学しているうち、
「自分のやりたいこと」 
に注力できないことも増えたし、
進路を着実に決めていかなければ
ならない中で、文字通り
休むことが消えていった。


教員採用試験を経て就職したが、
様々な事情があり、
(学校にはなんら関係なく、
私の体調や心の具合の事情だが)
生徒に会うこともなく3日目には
先生を辞めることになってしまったから
今は休養生活を送っている。


 そういう人生を送っていると、
まず大学院進学した時に、同級生や親に
「みんなは、働いてるのに
まだ学生なの?」と、
「勉強できても働いてる方が偉い」
「社会に出てみたらわかるよ」と
もうそれは何度となく言われた。

学業もしていない今は
さらに言われるが。

こうした言葉を言われるのは、
大学院に始まったことではなかった。


中高時代には、親に
「運動部ならいいけど文化部なんだから疲れるはずがない」と言われたし、

私は一応、中高時代の部活で、
県大会受賞レベルには真剣にやってきた
(とは言っても所詮、全国大会には
高校3年間一度も行けなかったが)が、
文化部というだけで、
ゆるゆる遊んでいた、
イメージを持たれる。


 今同じことを言われれば、
そうね、と流せるかもしれないが
高校時代には悔しい思いもした。

 「わたしは、受験生である前に、
1人の高校生だ」

という気持ちは、
そんな悔しさの中から、
高校3年の夏前の、
クラブ活動引退までは、

 受験勉強もほかもせず部活に勤しんでやる!!という
ちょっとした反抗心もあった。



 大学に進学しても、
大学院に進学しても、
「あなたより大変な人は山ほどいる」
「あなたは恵まれていていいよね」
「甘えてる」と何度も言われ、
その度に悔しい思いと
悲しさが積み重なり、
もっと頑張らなきゃ、と
自分を追い込むたび、緊張が増した。



 そんな緊張を、わたしは、
大学院を修了し、仕事に就いたものの
辞めてきた日、一度投げ出した。

(結局そのあとは、
仕事を辞めてきてしまったとか、
みんなは頑張っているのに、という
悩みに苛まれたが、既卒2年をそろそろ終える今になってはもう、
あの頃のような緊張はない)



さえりさんの本を開くと、
そんな狭いところに追いやられた心を
解き放とうとしてくれる気がする。


 頑張りすぎなくていいんだよ。
 もっとやわらかい気持ちで、
幸福感や、ふわふわした心持ちを、

肩の力を抜いて、深呼吸して、
新鮮な空気を吸った後のような、
リラックスした気持ちで、
いいんだよと。


 ー 緊張して、毎日「もっとがんばらないと」と気張っていたときよりも、
「ゆるい気持ち」で自分らしく暮らしているときのほうが、自分自身もしあわせだし、そしてそのしあわせでいられる「余裕」が、人にもしあわせを届けているのでは……?
 そうして自分を大切にできているときのほうが、未来にわくわくする余裕も生まれるのでは……?と。ー (p.7)

 




仕事を辞めた日


 大学生だった時、大学院生だった時、
学業以外のことがあまりにも忙しくなって、それでも学業を疎かにしないために、睡眠時間や食事の時間、休憩時間を惜しんだり、課題を電車の中で終わらせたり、夜通しレポートを書いたり、
寝る時間を極度に削ったり、

 それでもアルバイトも、授業も、
課題も、友人との予定も、やらなくてよかったことも、就職活動も、
本当にたくさんのことをこなしてきた。

 もちろん学部生の時は、たくさん遊んだりもしたから、楽しい記憶は多い。
 大学院時代も、それなりに娯楽も楽しんだ。
 それでも確かにどこかでずっと、

ピーンとはった糸があって、
とてつもなく大きな悩みごとも、
1人で抱えていたらその糸を
断ってしまいそうで、
でも本心を人に打ち明けることは なかなか難しい。


 それは今だってあるけれど、
学生の頃は、特に大学院生の頃は
やるべきこともたくさんあったから
今以上に頑張っていて、常に
緊張の糸が目の前にあって、
それがぎゅうぎゅうに
引っ張られていた。


 そんな人は、きっと今も、必ずいて、
過去の私のように、毎日、少しずつ、心をすり減らしている人たちがいる。

 


私たちは、目の前の仕事や、
やるべきことを見つけては、
それに没頭してしまう。そんな緊張を
抱えた私たちは、ちょっとした
周りの人の失敗や言葉や態度にも
寛容になれなくなり、
(もちろん自分の失敗などにも)
余計に苛立ったり悲しくなったりする。
悪循環がこうして生まれてゆく。


 ー 意外と「がんばるほうが楽」で、「がんばらない方が難しい」ということだってあるものです。
 でも、ゆるく生きて、自分と日常を一つひとつ愛して、そうすることで人にも優しくできるなら。そして少しでも心に余裕のある暮らしができたら。こんなことをいつも望んでいます。
 今、必要なのは「がんばること」でも「耐えること」でもなく、自分の気持ちの豊かさを追求することなのかもしれません。
 がんばりすぎのみんなへ。そんなに気張るな。ゆっくり休んでほがらかに生きよう。きっとそれがしあわせを連れてきてくれる。ー (pp.8-9)

 

緊張の糸を、限界まで
引っ張り続けた先に切れて
しまわないようにするためには
わたしには、
「もうすでに迷惑をかけるけど、
迷惑を最低限に抑え、なおかつ
自分が無理せず、今、休むしかない」

 そう思った。それが、
新卒入社3日目の朝にして
仕事を辞めると決めたきっかけだった。

辞めることになるだろうと
念頭において、休みたいんですと
いうなら今日が最後のタイミングだ、
と思ってそれを話した。

そうして、その日でその緊張の糸を、
引っ張りすぎて切れてしまう前に
自分から切った。

 
 仕事を辞めてきてから、
いろんな人の態度がかわった。
今まで優しかった友人が、
働いているのがどれだけ素晴らしいか
語るようになり、たいしてわたしのことを考えていない友人が、
あなたのことを心配している、という
言葉を武器に、
「あのね、働いてたらもっと大変だから」
と、何度も言うようになった。

それらはそれらで正しいのだろうけど

それが私の対人関係の構築の
仕方を変えるきっかけにもなった。と
同時にいろんな人をみながら、
“みんな、余裕がないんだな”
と感じた。



 私たちが、他人に優しくするために
必要なのは、日々の自分に優しくして
まずは自分を愛おしむこと。
 私を、私自身が1番に理解し、
愛すること
なのだろうな、と、
特に最近考える。

 


 仕事を辞めてきて、
 みんなのように働けなかった、
私は失敗したんだ、
親に迷惑ばかりかけて、
社会のなんの役にも立たないんだ、
そう思っていた私が出会った、
さえりさんの言葉は、私を家から外に、
1人から人と接するところへ、
連れて行ってくれた。

今でも、何度も、
「私いつまでこんななのだろう」とか、「彼は、彼女はこんな仕事してるのに…」と思うことはたくさんある。


 けれど、今の私は、それで
落ち込んでも、
動けなくなったり、
無理に何かを始めなきゃと焦って
動いたりはしなくなった。



 小さい頃から、親にもそう言われ、
自分でも「周りの人よりできない
のだから、周りの人と同じようにやれるように人の何十倍でも努力をせねば
ならない」と思ってやってきた
(つもり)。

 中高時代の部活で、
「自分に厳しく、人に優しく」を
モットーにやってきて、
大学に入っても、大学院でも、
自分でやると決めたことがあったら、
そこにどんな障害が生まれてもやる。
やりきる、と頑張ってきた(つもり)。


 それで得たものはたくさんある。


・教員免許(専修免許)
・塾講では教え子は全員成績アップと
志望校合格(これは生徒たちの
努力の賜物)
・大学2年の時は
塾講師で週4〜6働きながら
レポート8つ試験7つ+授業課題をやり抜いた
・大学3年の時から就活をして
選考開始から4ヶ月ちょっとで
7社受けて4社から内定。
・その間にインターンシップも
1ヶ月ちょっとやりぬく。
・大学4年時の塾講では
受験生を3人担当して全員第一・
第二志望校合格。
・卒論は2ヶ月で、100ページ以上を書ききった。
・卒論提出から2ヶ月後には大学院入試、
・内定以降は会社の内定者研修も参加
・大学院入学以降も、大学院の授業、
学部の授業、実習、TA、アルバイト、教採をやりぬいた。
・中高時代の部活のおかげで、およそ
発表や面接で原稿があったり、
就職活動などで人と対話することに重きをおく場面ではうまくコミュニケーションが取れる

ざっと思いつく限りだと、このくらい。



 何度も、がんばる方向を間違え、
それが私の欠点でもあるとおもうし、


そういう自分だから、
私は、ただ頑張ればいい、
「私頑張ったもん」は言い訳だ、
と思う。

それでも確かに、
わたしは頑張ったし、
他の人の助力も大いにあるが
結果的に、満足とはいかなくとも
これまでそれなりの及第点は
とってきた。


でも、

がんばりすぎた

 それも、大学に入ってからは、
自分の頑張りたい方向じゃないことに
もがんばりすぎていた。
だから、それを断ち切りたかった。

そのためには、まず、冷静に
判断するための、思考するための、
心と頭のスペースが必要だった。


「もうがんばりたくない、いま、
今やすみたい。とにかく一度、
ずーっと走ってきた私の人生という
電車を停めて、わたしの人生を一度、
“ストップ”させたい」


仕事を辞めてきた日、仕事に向かう
朝の電車の中まで迷って、でも、
最後の決断になった気持ちは、
引き金は、
こう思ってしまったことだったのだ。

私は、
自分の生きたいスピードで
過ごせなくなり、生きられなくなり、
猛スピードで走る車に引きずられている、いや車というより、
もはや特急電車に引きずられている
ような、何がなんだか考える余裕も
ないまま高校が終わり、大学が終わり、大学院が終わり就職した、

 そんな風に思っていた。


 もちろん、それなりに学生生活を
結構楽しく充実して謳歌したが、
大学2年から大学院修了まで、
ほとんど休みがなかった。
文字通り、
ずっと一続きで区切りがなかった。


 そして、その糸を就職まで持ち越したわたしは、こんなままで教育者として
聖職者として、智徳の模範にはなれない、と思いつめた。


 それで結局、精神的にも、
物理的にも、休むことを選んだ。
(とは言っても、結局そのあと、
仕事をしていないことに焦って、
転職活動に奔走したり、
もっと人と関わらなくては、と
心が疲弊しているのに頑張りすぎたり、なんだかんだやっと、
自分が仕事を辞めるときに思った
「やすみたい」に近い形をとれたのは、仕事を辞めてから1年半後の、
それもたった1週間ほどだったのだが)


仕事を辞めてから、さえりさんの本の
この言葉をゆっくりと両手で
受け取れるようになるまで、
1年半以上かかってしまった。


 1年半経ってやっと、
周りの人より遅いかもしれないけれど
少し、自分のペースで時間を過ごしたいんだ、私はそう思っているんだから、
それを実行しよう、

と思えるほどの余裕が出てきた。


 ー がんばれないときは、無理にがんばらない。がんばらない自分を許す。ちょっとでもできたら褒めてあげる。
 この一日を超えれば、また元気いっぱいのわたしに、きっとなれるはず。そう信じて、今日は自分に目一杯優しくしてみよう。ー (p.19)



 ー相手のペースに巻き込まれてしまうというのもまた厄介だ。早口の人と話せば自分も早口で話さなければいけないような気がしてきて、自分のリズムを簡単に失ってしまう。周りがせかせかしていれば、自分もせかせかとしてしまう。
 マイペースで生きられたら困ることもないのだけれど、人は案外「雰囲気」に飲み込まれやすい。きっと意識している・していないに関わらず周りの空気が思考や行動に染み込んできてしまうのだろう。ー(p.24)



 ー よく考えれば、誰もせかしてなんかいない。そう気づいて、ふっと息を吐く。ー(p.25)

 


 私も振り返れば、もちろん、
親や友人に
いつまでそんな生活してるの、だとか、
早く大人になりなよ、だとか言われたり
急かされている、とおもっていた。
でも仕事を辞めてきた、
とにかくやすみたいと思った
あの日から、2年弱が経ち、
顔を合わせれば、いちいち
色々口出されることもあるが、

もうあまり、
なんやかんや言われなくなった。
そして、自分も、
無駄な焦りはしなくなった。

これは、もう既卒1年を超えたら、
あんまり何も変わらないなという認識と、ちゃんと、少しずつでも私の中で色々なことが進んでいる、と
思えているからではあるけれど。



 みんな、日常の自分のことに必死で、
家族だって、たまにやっと余裕があるときくらいしか口出しして来ない、
みんな、他人のことにかまっていられないから、私のことなど大して気にしていない、

 これが真実だな、と感じるようになった。



  学部を卒業し、
新卒で入社して数年働く友人Aとは、
大学院に私が進学した時点で道が
異なる。もっと言えば彼女とは
違う学校を選び、違う分野を
学んでいる時から、全く違う道を
歩んでいる。


 同じ分野の同じ大学の
同じ研究室の友人Bも、
同じアルバイトではないし、
同じ道を通ってきて
今そこにいるわけではないし、

だから、比べられたり、みんなは、
と言われることはたくさんあるけれど


その時言われる、"みんな"と
わたしは、全く異なる人生を
歩んでいるから、
比べられたって、比較なんかできないし
比べたところで何も生まれないじゃん、

そう思う。

 どこかの器用な誰かが、最短距離で
いけるところを、たとえわたしが時間をかけてたどり着くことになっても、
それにはそれでわたしだけが、経験したものがある。それが“無駄”だと言われても、そうだとしても。






 必要なのは、隙間


 ー無駄は排除されがちだ。
  効率を高めるために無駄な時間をできるだけ減らし、余計なものは買わないようにする。もちろんそれが大事なときだってある。
  でもやっぱり、わたしは「無駄」は心にいいと思う。無駄話も、無駄な買い物も、多すぎなければ、心にいい。ー
(p.160)

 

 ー無駄を認めるのは、何かを許す隙間があるという証拠だと思うのだ。ー(p.161)

  

  以前にnoteに書いたが、


**「余白」というものが何事にも必要で、日常のなかにある余白を見つけて愛おしむその時間、人生にある余白の時間が後の、自分自身の貯蓄になったりする。 **


 時間は、貯蓄しておけないかも
しれないけれど、
 人生の、生活の余白で得た経験は
貯蓄されてゆく。


そうやって、日常を、
ゆったりとした気持ちで
「自分らしく」
愛おしんで生きていく。

 それが、きっと大事なものを見失わず、日々の生活を、つまり自分の人生を
楽しく、素敵なものに感じさせ、
愛おしく思えることになる。



 私は、今も周りの友人とは
全く異なる生活をしているが、
親に迷惑をかけていること以外には、
焦りすぎて毎日落ち込みすぎる、
ことはだいぶん減った。


 だって、わたしには、
わたしのペースがあって、
そのペースで歩かないと、
いつか歩けなくなってしまうから。

 

そのために、
自分のペースで歩いていくために、
周りの人の速さに巻き込まれすぎない
ようにするために
自分にとって本当に大切なものが何かをかんがえるのは大切なのかもしれない。



 それに、この道を選ぶことで
見えた景色や価値観、出会えた人は
必要だったと思うから。


 ー 日常を意識的に過ごせば過ごすほど、日々が「自分らしく」なっていく。そうして、もう一度日常を味わい直したり、または味わい尽くしたりすることができる。
 流れるように過ぎていく日常を無味乾燥なものにするか、ひとつひとつ見つめるかは、意識の問題だ。
 日常と日常の一瞬に、自分だけの風を吹かせているだけで何か大事なものを見失わなくて済みそうなきがするのだ。ー
(pp.214-215)


 “回り道”しても
(そもそも、なにをもって
回り道なのか、不特定多数の生きているであろうと思われる共通の道があると思っているのは、思い込みで、
同じ年齢の同じ会社の同じ部署の、
同じ仕事をしているように見える
彼、彼女とあなたは、
別の人間なのだから、)


 最短距離で進まなくても、いいんだ。 


だって、誰しも生まれた後は、
いつか訪れる死に向かって
生きているのだから。

 そんなに生き急ぐことはない。




 大切なのは、今この瞬間の私、は
二度と戻ってこないということ、を
たまに思い出して大切にできること
だったり、
今、目の前にあることに
一生懸命になってみたり、
たまに休んでみたり、

とにかく「なんとなく楽しそう」、とか「ちょっと寂しい」とか、
自分に素直に生きることなんじゃないかと思う。


 ー 「ケ・セラ・セラっていうのはね、物事はなるようにしかならないってことなんだよ」
 その人は続けた。
 きみががんばろうとがんばるまいと、結果はもう決まっているんだよ。だったら、「うまくやろう」なんて思わずに、楽しめばいいんじゃない?と。
 なぜこうも緊張するのか?と考えてみたら、「うまくやりたいからだ」という答えが思い浮かぶ。
 失敗したくない、うまくやりない、いい結果を残したい。
 そう願えば願うほど、体はかたまってしまう。一挙一動が“結果”につながるような気がして、思うように動けなくなってしまうのだろう。
 けれど、「もう、なるようにしかならない」と思えれば、思い切りふるまうことができる。失敗するかもしれない、うまくできないかもしれない、けれどそれももう決まっていることだ……。
 そう思うとふっと体が軽くなり、自分自身でかけていたプレッシャーから解き放たれていく。「楽しみながら、やるだけやってみよう。」こう思えるようになれば、いつもどおり、いやいつも以上にのびのびとがんばることができる。ー (pp.29-31)





 緊張した引退試合


 こうやってこの本を
読み進めているうち、
思い出したのは高校の部活動だった。


わたしは、中高一貫校で、中1の時に
この放送部に入ったのだが、
録音テープを送って審査される
中学生までとは異なり、
高校生になって、県大会の予選から
一発勝負になった。


 その高校1年のデビュー戦で、
上手とは言えずとも結果として
それなりにうまくいったのだ。
 それから、大会で勝つことが、
私の念頭に入ってしまった。


 そして、迎えた高校3年の
引退の大会ではなんと、
初めて県大会予選落ちに終わった。

 あれを、予選落ちで終わったのを、
私は8年ほどずっと、
自分に甘かったからだ、と思っていたが
そしてそれは間違いとも言えないのだが


今はむしろ、「うまくやろう
という気持ちが強すぎた」のが原因
なのでは…と思う。


高1の初めての大会の時に、
初めてのわりにうまくいったのは、
結局、初めてだったから、
気負わず、自分らしく、楽しんだから
だったのだと思う。
その後の時も、楽しいなと思えていた。



 自分に負けない、
自分に甘くならない。

 私がクラブ活動の練習で
念頭に置いていたのは、
「人に優しく、自分に厳しく」
だった。


でも、あの最後の大会の日、
私はとにかく勝ちたかった。

 負けた日、わたしは、
後悔した。
 「勝つこと=誰よりも上に行くこと」ばかり考えて気張りすぎて、
自分の好きだった放送を、
楽しめなかった……。これが、
最後の楽しい大舞台だったのに、と。


ー 「負けたくないんです」
 そういう気持ちを持つのは決して悪いことではない。誰かに勝ちたい、誰かに負けたくない。そういう気持ちは、たしかに自分が世の中で戦う上での原動力になりうる。
 けれど「あいつを負かしたい」という気持ちが、あまりに強くて自分が苦しくなるなら少し見直すタイミングかもしれない。勝ち負けで物事を考える人は、自己評価の軸が「自分以外の場所」にあるのだとよく思う。ー (p.70)


ー 目指すべきなのは、昨日よりもいい自分であって、AちゃんやBちゃんに勝る自分ではない。誰になんと言われようとも昨日の自分よりよかったら、それでいいんじゃないか。昨日よりちょっといい自分で生きられたらいいんじゃないか?
 自分以外の人には、どうがんばってもなれない。だったら、自分史上最高の自分になっていくしかない。ー (pp.55-56)

 

なーんだ、ほら、さえりさんが
書いてるようなこと、わたしだって
高校生の時の経験で、
自分で気づいていたじゃない。

 それなのに、おんなじようなことを、
形を変えながらずっと10年くらい悩んでいる。今だって、結局そう。


 こんなにも、なにもできない、
失敗ばかり、みんな、ちゃんと生きているのに…
 ここ2〜3年、わたしは
そういう気持ちだった。


しかし、
今年の初めくらいにふと、
疑問に思って、努力をコツコツと
続けられている人だな、
とわたしが思う友人に
疑問を投げかけた。

 「失敗したり、落ち込むことあるの?」

 いきなりこんなこと聞かれて、
困惑したに違いない。
でも返してくれた。


 「そりゃあるよ。むしろ人よりある。落ち込まない人なんて誰もいないと思うよ」


 そっか、あるんだ…。

 実はその彼に質問する前に、たまたま別の友人に相談していたとき、
「俺も何度も叱られたりしたけどさ」と言われて私は、ひどくびっくりしたのだ。

 わたしはそれを言った友人を、
うまく、何でも器用にこなす人だと
思っていたし、わたし以外のみんなは
毎日きちんと仕事をこなせて、毎日きちんと生きられて、うまくいってるんだ。こんなにもなにもできないのは、能力のないわたしだけなのだ、
と思ってきたのだ。
真剣にずっとそう思って悩んできた。

だって、みんな、どんなことがあっても
次の日にはちゃんと仕事に行ってるし
私みたいな理由で仕事辞めてくる人
いないし…


 ー ふつうに生きていれば、ときには打ちのめされることもある。失恋や仕事の失敗、友人関係のトラブルなど、「自信喪失」の機会は人生にしばしばやってくる。ー (p.82)


 ーけれどいつでも忘れずに大事にしていたのは、「わたしはしあわせになる」と疑わなかったことだ。ー(p.83)

 

 大きく失敗するたび、躓くたび、
自分の生きている価値というものを
持ち出していた。
 うまくできる人たちを見るたび、
この人たちがいるのだから、わたしは
不必要な人間だと思っていた。

 でも、私が生きているのに、
ココにいるのに、必要性の問題は
関係なかったし、
自信を持っているように見えた友人も
自信なくてもやっていた。

 

 わたしは、遠回りして、廻り道を
しているのかもしれない。

 それでも、わたしのペースで、
わたしなりのやり方で、
わたしにできるだけのことで
少しずつ頑張るのが1番なんだ。



 高校生の時に学んだはずの、
他人との勝ち負けじゃない。
自分が楽しめるかどうか、
自分が頑張れたかどうか、
それが大切なんだということに、

 形を変えてまた同じように躓いて
今再び学んだ。


  さえりさんは、この本の最後に
次のようなことを綴っている。


ー 日常を意識的に過ごせば過ごすほど、日々が「自分らしく」なっていく。そうして、もう一度日常を味わい直したり、または味わい尽くしたりすることができる。
  流れるようにすぎていく日常を無味乾燥なものにするか、ひとつひとつ見つめるかは、意識の問題だ。
  日常と日常の一瞬に、自分だけの風を吹かせているだけで何か大事なものを見失わなくて済みそうな気がするのだ。ー (pp.214-215)




おわりに


 今でも、焦りはある。

どんどんいろいろなことが
できるようになる友人たち、

責任ある仕事や地位にいたり、
所帯を持って人の人生をも
担っている同級生たち、

比べて、ただ毎日働くことも、
親から経済的自立をするのも、
いや、三食まともに食べることすら
できずにいる自分。



「社会人」という言葉は、
昔から好きではなかったけれど、
それでも働いて世の役に立っている、
という実感は、
どこかに勤めたり、自分で何かをした
それが軌道に乗っていないと、なかなか
感じられない。

 それでも、最近はたまに、
「あ、今のわたしは力が入りすぎているな」と思って、自分で緊張を解くようにようになったし、

「成果を、結果を、出さなきゃ」と
いう緊張もさほどなくなった。



「今の、わたしにできる程度で、
わたしのペースで、自分に負けないように、いや、たまには負けたって、
その日その日が、流れるように去ってしまっても、
疲れたら紅茶でも飲んで、
散歩したりして、やりたいと思ったら
やってみよう。頑張れない日が
あっても、頑張りたいと思える日だってどこかにあるから、
心の向くままに生きてみよう」


 親や周囲には心配や負担は
かけているかもしれないけれど、
また、
塞ぎ込んで外に出られなくなりながら、
自分のことが嫌いになってしまう
よりは、ゆるやかな日々を、
自分のペースで生きられる方がいい。



 社会の流れというものがある。
それはさまざまな人のながれが重なり合って、時に加速度的に速くなる。

 誰かと関わっていれば、少なからず相手のペースというものがあって、

それが自分とは異なると、戸惑う。
流れはだいたい速いものに
巻き込まれてしまうから、
相手のペースが速ければ、
自分ではコントロール
できなくなっていく。
 そして、苦しくなる。

 そうして動けなくなったり、
ダメになった人の、ズタズタな状態は、
経験しないとなかなか
共感できるものではない。

 仮に正しいことでも、
「みんなだって頑張ってるんだから」
「大変なのはあなただけじゃない」
という言葉は、
追い詰められていくだけだった。

(人にもよるが、わたしの場合、
ズタズタだったとき、1番自尊心や
自己肯定感がさがったのは、
誰にそんなこと言われなくとも
「みんなは頑張っているのに、私はがんばるのをやめてしまった」というそのものだった。
どんなに理解してくれようとしている人の「頑張れ」も、「ちょっとずつでも進もう」も、もちろん嬉しいしありがたいけれど、言われるたびに「私は第三者から見てまだ全く頑張れていないんだ」、と思っていた。)


でも、さえりさんは、
寄り添ってくれた。


ーちょこちょこと本の中でも書いてきたのですが、わたしは昔、がんばりすぎてダメになってしまったことがありました。
 「まだがんばれる」「こんなことでめげるわけにはいかない」「わたしは平気」。こんなふうに唱えて心の警告を無視し続けて、ある日ぷっつり糸が切れたようにがんばれなくなってしまったのです。
 ここまでくればまた厄介なもので、「自分はダメな人」「なんでみんなみたいにがんばれないの?」と自分をさらに追い詰めてしまいました。ー (pp.216-217)
 ー がんばれない日があっていい。元気がなくてもいい。ゆっくりでいい。焦らなくていい。「はじめに」でも書いたように、意外とがんばるよりもがんばらないほうが難しいときが人にはあり、特に「ほうっておくとがんばっちゃうような」真面目な人たちにとっては「がんばらずにいる」のはとても難しいことなんだなと思います。
 でも、この本で散々お伝えしてきたように、「がんばる」よりも「がんばらない」でほがらかにいるときのほうが、自分も人も嬉しくて、みんなに優しい人でいられると思うのです。
 わたしも、みんなも、いつどんなふうに苦しいときがくるのかわかりません。  
 そんなふうに、苦しくなってしまう前に、毎日少しのしあわせをしっかり感じられる心の隙間を出し続けてほしいのです。 ー(pp.221-222)

 


私たちに必要なのは、

空白が余裕を生み出すんだ、

という心持ち。

“みんなのゴール”なんてものは
幻想で、


各々が、心地よいと思う生き方で
社会と調和し、に
人生をゆるやかに楽しみ、
その空白の(隙間の)生み出した
余裕で、自己を、他者を、
包み込んでいく。



幸せのかたちは人それぞれだとか、
心地よく生きよう、だとか、
“周囲の人”に優しい価値観も
強くなったが
他の人に優しくするように
自分にもする。

 きっと自分が心地よく、優しく、
幸せだと思って生きている人は、
周囲にも優しく
なれるから。



ー 何かと自分を比べても、その先にしあわせは待っていない。自分のことはぜひ、絶対評価で肯定してあげてほしい。ー (p.57)

 


 誰かに優しくなるために、
 誰かに思いを馳せるために、
 その想像力を養うためには、

まずはわたし自身に、
今の、“きのまま”、の自分を、
背伸びせず、卑下せず、
認めてあげることが大切なのだろう。

そう思えた。



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