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「名前」とは、他者からつけられたものだ。自分で選んだものではない。そのことが、ずっと私は気になっていた。

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『ジミー』は、まったく「名前」についての小説だともいえる。

題名の『ジミー』は、登場する編入生の「名前」だ。だけど、主人公のそれでもなく、「本名」でもない。私は、初めからこの題名を決めていて、物語を象徴するものとして、これ以外はあり得ないと思っていた。

さて、その「ジミー」が、「名前によって」笑われるシーンから物語は始まる。

皆が注目する中、彼は真剣な顔で言った。

「ジミーです」

ぽかんと真空状態のような空間が生まれた。
笑っていいのか、そうでない場面かわからない。戸惑いは、みんなを無言にさせた。

『ジミー』より

笑いとは逸脱だというけれど、その「名前」が何を逸脱しているのだろう。

第六章の見出しは、「名」だ。


『ジミー』 第6章 見出し


主人公マイは、彼と出会うことで、新しい世界への扉を開く。ジミーが、ほかの登場人物と違うのは、彼が「名前」を「選んだ」人であることだ。

「名前を選ぶ」エピソードは、マイがジミーを知る重要なものであり、多くの読者がここが印象に残ったという。

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私は、大学生のころ、台湾系アメリカ人Sとお付き合いをしていた。ある日、彼が、自分の名前について語った。

彼のお父さんは、先にアメリカにわたり、仕事が軌道に乗ったころ、家族を呼び寄せた。Sは、16歳でアメリカに移住することになった。

「名前をどうする?」とお父さんにきかれ、彼は、自分で自分の名前をつけたという。「適当にね」と彼は笑った。

ずっと前のことなのに、この話は、なぜか忘れられなかった。

ミロという飲み物がある。これはマレーシアではマイロという。「名前」は可変のものだ。それなら、「そのもの」ではない。

また、この小説自体が、記号化する社会への、マイの抵抗の物語と読むことも可能だ。

サラリーマンとホテルに行って金をもらう彼女は、被害者ではなく、戦うヒーローだといつも私は思ってきた。

「変でしょ。彼氏でもないのに、寝たりしてさ」というけれど、「変」だからこそ、彼女は、物語の主人公なのだ。

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さて、「名前」とは、いったいなんだろう?

私たちは、それを「自分」だともいう。そのとき、一方的に「つけられた」ものであることを忘却する。私たちは、何を得て、何を失っているのだろう?

名前を奪われるのは、とても恐ろしいことだけれど、なにをはく奪されることなのだろう?

名前について、いろんなことを語ってほしい。

自分の語ることから、また他の人が語ることから、普段ならこぼれおちるようなことが、見えてくるのではないか。

名づけられない、美しいもの。

小説って、そういうことだと思う。大学生のころのちいさな記憶は、そのまま忘れ去ってもよかったようなものだ。

だけど、指先に残っていて、こぼれおちなかった。もう一度、それを救いなおすことだって、できる。

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抽象的なことと、自分の感覚が交差するとき、私たちは、気づきを感じるのだと思う。

私が、学生時代の小さな記憶を思い出したように。

あなたのそれは、何だろうか?

何を思い出すだろうか。そうでなければ、こぼれてしまうこと。

名付けられてないことに、出会うだろうか。

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