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察する力が足枷になるのです。

『グローバル×AI翻訳時代の新・日本語練習帳』という本を読んでいる。

きっかけは大変不純なもので、英語が苦手な私が、少しでも楽をしながら英語を学び習得でき、あわよくばこれを活用することによって、テキストベースでもいいから英語コミュニケーションを難なく取れるようになれないか、と考えたからであった。

と言っても、さすがに本当に全てを機械翻訳に任せてしまおうと思っているわけではない。当然、機械翻訳技術の本質的限界は理解した上でのことだ。

それでも、現代の機械翻訳の高性能化によって何がどれだけできるようになったのかを知りたかったのと、もしそれをうまく活用できるならそれに越したことはないと思ったからだ。

ある程度読み進めてみて感じたことは、日本語のハイコンテクスト文化がグローバル・コミュニケーションの場では全く通用せず、とにかくローコンテクストで、全てを言語化するつもりで望まなければならない、ということだった。

日本語を機械翻訳によって英語に変換し、その英語によって英語圏の人たちに誤解なく物事を伝えるためには、普段の我々が意識せずにいるような言外にある要素についても徹底的に具体化し、言語化しなければならないのである。

日本語圏のようなハイコンテクスト文化にすっかり慣れ切ってしまっている私にとっては、こういうローテクストなコミュニケーションはとにかく言語化するエネルギーをとられるので結構大変だ。

これは英語でのコミュニケーションに限らずだが、前提を共有していない人々とのコミュニケーションにおいては、いろいろな要素の言語化を省略して楽をすることができない。

基本的に省エネを望む私の個人的性質からすると、これが結構大変なのである。

普段の無意識的なコミュニケーションにおいて私が省エネが可能なのは、日本語特有のハイコンテクスト文化に適応し、かつ、どうやら周りの人よりも「察する能力(理解力・把握力)」があるようだからだ。

説明が不十分でもその内容を汲み取って理解するのが早かったり、相手の言いたいことを察するのが得意だったり、言葉にされなくても、人の行動や表情を見てその人が何を感じているか、どうしたいのかを把握することができたりするようなのだ。

この特性は確かにポジティブに働く場合もあるのだが、こと英語を用いたグローバル・コミュニケーションの場においては足枷になる。

だから、私が本当の意味で英語と英語コミュニケーションを習得するには、単に英語運用能力を習得するのみならず、人とのコミュニケーションの根本的な考え方や価値観のパラダイムシフトが必要になるのだ。

英語の教科書は巷に溢れているけれど、こうした「コミュニケーションの根本の考え方をどのように変えれば良いか」が書かれている本は意外と少ない。

しかし、冒頭の書籍は、どのような考え方やスタンスを持って英語コミュニケーションに臨めば良いか、ということについても比較的多く触れてあったので(というか、それが本書の本質だと私は感じた)、この内容を少しずつ実践することを通して、価値観の変革を実現したいところだ。

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