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これは愛なのか、それとも…。【歪んだ日常に生きていた過去のお話】

愛とは何か。

漠然としたことだけど、延々と考えてしまうことがある。


悲しい時、苦しい時、これを題材として悶々とした時間を過ごしてしまう。


どんなに考えたって結論なんか出やしないのに。


その時にいつも目の奥に見える、暗闇の中でしゃがんでいる女の子。


幼い頃のわたしだ。


過去のことを思い出すと、あの時膝を抱えて泣いていた自分が客観的に見える瞬間がある。

大人の私はその子に近付き、そっと背中をさすってやる。



でも、そうできるようになったのはここ数年の話。

それまではずっと自分が可哀想な子だなんて気付かなかったから。いや、気付かないフリをし続けていたのかもしれない。



物心ついた頃から、父親は居なかった。


母は、その当時付き合っていた恋人と同棲生活。

私は祖父母と伯父との4人で暮らしていた。



小さい頃からずっと祖父母が父と母の代わり。

祖母は私をよく『歳を取ってから産んだ子供だと思ってる。』と言っていた。

その言葉通り、周りのお母さん達と同じように毎日お弁当を作って幼稚園に送り出してくれる。授業参観にもラジオ体操の係にも母ではなく祖母が来てくれた。


"みんなの家はお母さんがしてくれることを、うちはおばあちゃんがしてくれてる。"


ただそれだけだと思っていたし、私は祖母が大好きだった。


大人になるまで気付かなかった。他の家とうちが違うことを。



今思えば、おそらく祖母はADHDなのだろう。その上ひどい癇癪持ち。

気に食わないことや、私が祖母の思った通りに動かないとよく手をあげられていた。 

頭をグーで殴られるからいくつもタンコブが出来ていた。黄色い通学帽を被る時、触れるだけでそれが痛んでいたっけなぁ。



ある時は手当たり次第に近くにある物を投げてきたり、首を絞めたり、タバコの火を手に押し付けようとしてきたり。

今思えば虐待なのだろうが当時は叱られていると思っていた。


怒られている時、頭の中は"怒りを沈めないと。"という感情でいっぱいでボロボロ涙を零しながら毎回脚にしがみついて謝っていた。

何に謝っているのかも分からないまま

何が逆鱗に触れたのかも分からず、ただただその場を逃れるために謝っていた。


近くにいる祖父もまたそれを止めることはなく、ただ黙って見ているだけだった。



「ぺろみちゃんが言うことを聞かないから自殺する!」


こんな事もよく言われていた。



ただ毎回、怒りが落ち着くと「ぺろみちゃんの事が大事だから、いい子に育って欲しいから怒るんだよ。」と言っておいしいご飯を作ってくれた。


私は今でも祖母のご飯が大好きだ。

食べるとなぜか心が落ち着く、ホッとする味がする。

きっと無意識に安堵感を感じながら食べていたからだろう。



気が付いた頃から、祖母のご機嫌を取ることに必死になり自分の感情は殺しながら生きるようになった。


でも私が痛い思いをせず生きていくためにはこれしか方法が無かった。


だんだん思春期に近付くと家でこっぴどく怒られている事実が恥ずかしくなってきた。


"どうにかこのことだけは同級生にバレたくない。"


そんな思いから家で起きていることを誰かに話すことは一度もなかった。

小さい田舎の町。噂なんて一瞬で広まってしまう。


でもきっと、小学校の頃の担任の先生と保健室の先生はこの事に気付いていたのだと思う。



どんなに体調が悪くても皆勤賞をもらう事が絶対だったうちの家は、インフルエンザや水疱瘡などの出席停止扱いになる病気以外では休ませてくれなかった。


熱があってもお腹が痛くても薬を飲んで登校し、出席を取ってから保健室で眠っていた。

体調の回復が見られず早退する時は担任の先生が家まで送ってくれる事もあった。


小学生のくせに手荒れや赤切れがすごくて手に力を入れるだけで切れて血が滲んでいても病院には連れて行ってもらえなかったし、お風呂で洗髪するのも2日に1回だったので夏場はフケも出ていた。

そんな時はいつも保健の先生が祖母に手紙を書いてくれたり、電話をしてくれていた。

こうやって周りの大人たちが私を守ろうと動いてくれていても、「家に帰って怒られたくないな〜。」なんて思いながら笑って過ごしていた。



しかし、こういった家庭特有なのかもしれないがものすごく世間体だけは気にするのだ。


大人たちが動いてくれた日はすごく優しくしてくれたし、病院にだってすぐに連れて行ってくれた。


私はそれが心地よかったし、そうしてくれる度に祖母のことを好きになっていった。


まあ、数日後にはひどい癇癪を起こして怒鳴り散らされてしまうのだけれど。



そんな生活が中学校卒業まで続いた。


その間に私には弟ができていた。母が同棲していた恋人と授かり婚をしていたのだ。


母は新しい父親の方の実家で暮らしていたので一緒に住むことは無かった。

一度 私もそちらへ住むと言う話も上がったのだが、私が連れ子だったことを嫌がった養祖父母がそれを許さなかった。


祖父母と共に住み、週末にだけもう一つの家族に会う。


それが私の生活ルーティーンだった。



だがそれが突然変わったのは中学卒業前だった。


母が義母と上手くいかなくなり、弟を連れて家を出たのだ。


母と弟は実家近くのボロボロの市営住宅へ拠点を移し、私もそこに住む事になった。


私は高揚していた。


生まれて物心ついてから一度も一緒に住んだことのない母と一緒に住める!可愛い弟もそばに居る!会えるのは週末だけじゃないんだ。

そんな思いでいっぱいだった。



だがしかし、親が親なら子も子だ。


母親も癇癪持ちだった。


その上男好き。


知らない男の人にどれだけ会っただろう。

どれだけ一緒に食事に連れて行かれただろう。


親の首筋にキスマークがついてるのを見た時のショックは言葉にする事ができない。


「お前が居るからあの人を家に連れて来られない。」


「私は仕事で忙しいのに、お前はどうせ暇なんだから家事くらいしろよ」


思い返せば自然と涙が溢れる言葉たち。


ああ、また暴言を吐かれながら生きていくのか。



高校入学してから友達ができず、私は家にも学校にも居場所が無くなり、この頃くらいから自然と"死"を意識するようになった。


それと同時期くらいに自律神経失調症になった。これは胃痛で立てなくなった時に受診した内科で診断された。

検査で何も異常が無かったので、溜まっていたストレスの事をポロッと医師にこぼしてしまった。

この時が初めてだった。誰かに家庭のことを話したのは。


精神科を勧められたが、当時 健康保険証は祖母が管理していて、何が悪くてどこの病院に行くか告げなければ病院に行けない上に必ず祖母が病院まで同伴してくるので、とてもじゃないけど行くことはできなかった。


もしこの時に勇気を出して病院に行っていれば、もう少し早く外の光を見れていたかもしれない。何か変わっていたかもしれない。

そう思ってはみるけれど、結局は結果論だ。



病名を母に告げ、薬で症状を抑える生活が始まった。


この時、家の事は大半私がやっていた。母は仕事から帰ってきて私が作ったご飯に文句をつけながら食べ、眠るだけだった。


会話した記憶はほとんどない。



診断を受けてからしばらく経ったが、その場凌ぎの薬を飲んでも良くなる事はなく、痛みで何もできない日もあった。


そんな時は決まって

「視界に入るとイライラするから部屋に行って寝てろ。」

「お前はそんな性格だからいつまで経っても病気が治らないんだよ。まず性格を直せ」

と言われていた。



それから紆余曲折あり、高校卒業と同時に家を出る事になった。ようやくあの家族という柵から逃れたのである。


仕送り等は一切無かったので貧乏な暮らしだったが、満喫していた。


高校卒業する少し前にできた恋人と一緒に上京してきたので寂しくもなかった。

その恋人とは8年くらいの付き合いになり、今も側で私を支えてくれている。


彼に出会い、はじめて家で起きていた事を誰かに話した。それはそれは事細かに。

話せたのも付き合ってから6年程経ってからだが。

それくらい人が信用できなかったのだ。

今思えばすごく悲しい。



そこでようやくアダルトチルドレン(AC)という言葉に出会い、自分がこれに当てはまることを知った。

このせいで、数え切れないくらい恋人を傷つけてきた。ようやくできた大切な人をこれ以上傷付けたくない。その思いから心療内科に通うことにした。

そうして病名が付いて診断される私の"性格"たち。


やっと生きにくい理由が分かった瞬間だった。

私はずっと心の病気だったのだ。

性格なんかじゃなかった。



病気、ACとの闘いは現在進行形でまだ続いている。


ずっと生きにくい世界で生きてきた。


これからもきっと何度も同じ壁にぶつかるだろう。


私がこうなってしまったのは私の家が機能不全家族だったせいだが、私は別に家族の事を恨んだりはしていない。

離れてみて思ったことがある。

きっと私の母も祖母もこうなるべくしてなった。そうなるように育てられてしまったんだろう、と。

そんな狭い檻の中で生き、その中で精一杯 私を育ててくれた。

歪んではいるが確かにそれは愛だと思う。



母も祖母も私と離れて暮らすようになってからとても丸くなった。

きちんと対等に話してくれるようになった。

きっとこれで良かったのだ。


まだ人生の途中。これが正解かは分からないし、確信も持てない。

でも、自分自身がACだと認め、親の痛みに寄り添う事で一歩進めていることは間違いない。離れないと気付けなかった。


これからも幾度となく自分自身と葛藤するだろう。

どんなに自分を責めても、憎んでも、これが私だ。この身体と心で生きていくしかないのだ。


一歩先は常に真っ暗闇。

でも、膝を抱えて泣いている小さい頃の私が笑って過ごせる"いつかの未来"が必ず来るように、不安定だけど確実な一歩を歩いていきたいと思う。








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