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読書 | 御成敗式目


はじめに


 1ヶ月くらい前に書店をブラブラしているときに購入した本。佐藤雄基(著)「御成敗式目」(中公新書)。

 歴史全般に強い関心があるわけではない。しかし以前、山本七平の著作か何かで、「御成敗式目」は、江戸時代だか明治の初期の頃まで、読み書きを学ぶ教材として利用されていたという話を読んだ記憶があった。

 少し立ち読みしてみたら、巻末に「御成敗式目五十一箇条」がルビ付きで掲載されていたので、じっくり読んでみたくなって購入した。

 私の鎌倉時代の知識と言えば、頼朝が幕府を作り、承久の乱ののち、本格な武家政権になり、御成敗式目のような武家法が制定され、蒙古襲来があり、徳政令が出された、くらい。その他のことも日本史で学んだはずだが、思い出せることは乏しい。

 そこで、まず、前掲書を参考に基本的な用語を整理することから始める。
 そのあと、個人的に面白いと思ったことを気ままに書いてみる。


(1) 知識の整理


守護と地頭  > ( 前掲書、pp.5 - 7 )

守護とは鎌倉幕府「国」ごとに設置した地方官であり、軍事や治安維持を担当した。

また、国ごとに守護が置かれる一方で、朝廷の支配下にある国司という地方官が国ごとに存在し続けていた。

鎌倉時代にはまだ「国」ごとに「国衙」(こくが、国の役所)とそこに集う在庁官人(ざいちょうかんじん、国の地方役人)たちの勢力が残っていた。

鎌倉時代の地頭とは、幕府が守護とは別に国内の荘園や公領ごとに設置したポストである。
御家人(幕府の支配下にある武士)は、幕府から「御恩」として荘園・公領の地頭の地位を与えられ、軍役などの「奉公」を果たしていた。

国司や荘園領主の支配を尊重することは、鎌倉幕府の基本原則だった。

< 新補率法 > (前掲書、p.35 )

承久の乱の2年後、1223年(貞応2年)の新補率法(しんぽりっぽう)は、新たな地頭得分(得られる収益)の基準を定めた法である。

<嘉禄の新制> (前掲書、p.40 )

新補率法とともに、1225年に「嘉禄の新制」。新制とは、平安時代以来、代替わりや天災に際して、朝廷が政治改革のために発した法令であり、「徳政」すなわち良い政治を意味していた。

< 寛喜の大飢饉と新制 > (前掲書、pp.44-45 )

御成敗式目がつくられた1232年(貞永元年)当時、日本列島は歴史的な大飢饉に襲われていた。後世「日本国の人口の三分の一が死に絶えた」と語り継がれた寛喜の大飢饉である。

1231年(寛喜3年)、道家のもとで朝廷は「寛喜の新制」を発している。

< 風伯祭 > (前掲書、p.49 )

1231年6月、寛喜の大飢饉のさなか、鎌倉では由比ガ浜の鳥居の前で「風伯祭」(ふうはくさい)という陰陽師の祭祀が行われていた。


(2) 個人的に面白いと思った箇所


< 前掲書「はじめに」、p. iii より要約 >

鎌倉時代の「国のかたち」に関する主要学説は大別すると2つ。

権門体制論」(けんもんたいせいろん)
→幕府は中世の支配層の一部分でしかないという説。鎌倉幕府は軍事と治安維持を担う権門として天皇のもとで国家権力の一部を構成していたと考える

東国国家論」(とうごくこっかろん)
→幕府は関東に独自の基盤を持ち、京都の朝廷から半独立的な状態にあることを重視する説。


🙄
 私自身は、どちらかというと、「東国国家論」的なイメージでとらえていた。特に承久の乱以降は、完全に幕府が優位に立ち、朝廷と幕府の主従関係が逆転したと思っていた。

 しかし、「権門体制論」という考え方は面白い。
 国司と守護・地頭が併存していたことを考慮すると、こちらの説も信じたくなる。


< 前掲書、p.14 >

前後の時代と比べての推定になるが、一説によれば、式目が制定された頃の日本国六十八箇国の総人口は多く見積もっても、六、七百万人程度で、京都の人口は多くても十数万人と想定されている。
(中略)
京都以外には大都市は存在せず、鎌倉でさえも数万人規模だったと考えられている。


🙄
 鎌倉時代の人口がどれくらいいたのかについて考えたことがなかった。
 日本の総人口は多くても600~700万てあり、首都?の京都でも10万ちょい、鎌倉の人口が数万人というのは頭に入れておくとイメージがわきやすい。


< 前掲書、p.20 >

(幕府は)御家人になるかどうかの選択肢を与えたことである。国司や荘園領主の支配下に残ることを選んだ武士たちは「非御家人」と呼ばれた。鎌倉時代の武士の全員が御家人というわけではないことには注意が必要である。


🙄
 なんとなく、鎌倉時代の武士たちはみな御家人であり、「御恩」と「奉公」という封建制度のもとにあったと思っていた。「非御家人」という言葉は、初めて聞いたような気がする。


( 3 ) まだ全部読んだわけではないが。。


 まだ、「御成敗式目」のすべてのページをめくったわけではないが、疑問というか、これから調べてみると面白いかな、と思ったことを箇条書きにまとめておく。


 京都から遠く隔たった場所にある鎌倉まで、情報が伝わるまでにどのくらいの時間がかかっていたのかということ。


 京都と鎌倉との往来が、現在ほど頻繁ではなかったとすれば、そもそもどれだけ言葉が通じたのだろうか、ということ。
国内における、「日本語」の差異は、今とは比較にならないくらい大きかったと考える。言語学的に興味がある。


 江戸時代に至るまで、たびたび飢饉が発生したことは知っていたが、「御成敗式目」が制定された頃、飢饉があったことは初めて知った。
 飢饉・天災が政策に与えた影響から歴史を考察すること。


 鎌倉時代における、支配階級と民衆の法意識はどの程度のものだったのか、ということ。現在の「法」のとらえ方、あるいは立法の仕方とは異なる。
 現代的な言い方を借りると、中世の「法」(格・式にしろ、御成敗式目にしろ)は、私のイメージでは「閣議決定されたこと」あるいは「省令」や「通達」である。
 また、パンデクテンのように、総論・各論というような秩序だった法でもない。






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