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「弱者男性」という言葉は卑怯だ。


はじめに

先日、X(旧Twitter)上で
「弱者男性」という言葉についての投稿をしました。
それが性別に関わらず多くの方の目に留まり
様々なご意見をいただきました。

投稿の全文は以下の通りです。

「弱者男性」とかいう言葉があるけど
本当に卑怯な言葉だと思う。

男性って本当に弱い。精神が貧弱。
我慢ができない。感情的で衝動的。
そしてそれを自覚できない。
指摘されても認められない。

そんな自分の問題を
自分で引き受けずに
「仕方ないよね」
と言ってもらえることを
求めてばかりいる。

まことさん・山下真実Xアカウント投稿(2023.9.11)

この投稿は多くの、主に女性と思われる方たちの賛意を得ると同時に、
非常に多くの男性と思われる方たちからのご批判を受けました。
ご批判には、たとえば次のようなものがありました。

私自身、この投稿において
「弱者男性」と呼ばれる人たちを指差して責めたり
批判したりする意図はありませんでした。

(その証拠に私は、「『弱者男性』という言葉は卑怯だ」と書いており、
 決して「『弱者男性』は卑怯だ」などとは書いていません)

しかし、多くの男性たちがそのように誤解をした原因は、
それに続けて私が書いた文章にあったのだと今は振り返っています。

投稿の前半と後半は、
それぞれ以下のような意図をもつ異なる内容でしたが、
それを繋げてしまったために、誤解が生じてしまったのだと思っています。

前半:「弱者男性」という言葉は、
   男性(社会)が抱える問題の本質を見えなくさせる卑怯な言葉である
後半:男性たちが抱える問題の本質のひとつとして
   男性の私が認識している男性の「弱さ」について

投稿の後半「男性って本当に弱い」から始まる文章は、
「弱者男性」に限定したものではなく、
私自身を含む多くの男性が共通して抱える問題として
私が認識している、男性の「弱さ」について述べた文章でした。

この、投稿の後半部分ーー男性の「弱さ」については
本記事では詳しく触れず、別の機会にまとめたいと思います。
また、私自身が仲間と共に行っているメンズリブの活動の
記録を読んでいただくと、私が言わんとしていることが
なんとなくわかっていただけるかもしれません。

いずれにしても、まず今回の投稿を通して
「弱者男性」といわれる方たちを責めているように
批判しているように思われた皆さまには
ご心配をお掛けしましたことをお詫び申しあげます。

あらためて、少し丁寧に言葉を紡ぎながら
私が「『弱者男性』という言葉は卑怯だ」と書いた意図を
ご説明させていただきたいと思います。

ご批判の内容にもあったように、
私は普段、キリスト教会の牧師という仕事をしています。
元々の投稿は、聖書やキリスト教の教えを
背景や根拠にしていませんでしたが、
そのような視点からのご批判もありましたので、
私なりに聖書やキリスト教の視点からも
応答をさせていただこうと思います。

少し長くなりますが、
よろしければ最後までお付き合いください。

◆「弱者男性」という言葉

 私の認識

まず初めに、「弱者男性」という言葉の意味と意義について
私の今の理解を書かせていただきます。

「弱者男性」とは、
能力主義や資本主義、"モテ"などといった
競争原理が強く支配する男性社会における価値観のもと、
力をもたないとされる男性たち、
男性ヒエラルキーの下位に位置するとされる男性たちを
指す言葉である
と認識しています。

ちなみに、Wikipediaにおいては以下のように解説されています。

弱者男性
日本のインターネットスラング
 弱者男性(じゃくしゃだんせい)とは、独身貧困障害など弱者になる要素を備えた男性のことである[1]。この言葉は、マジョリティであり強者であるとされる男性の中にも、恵まれない者や不幸な者がいると論じるときに用いられる[2]。2010年代からSNSを中心に使用されるようになった[3]

定義・背景
 多くの評論では、「弱者」の定義は曖昧だとしつつ[3]、その構成要素の候補として、労働の非正規性や収入、容姿、コミュニケーション能力、パートナーの有無、発達障害や精神疾患の傾向などが挙げられている[3][4][5]
 批評家のベンジャミン・クリッツァーは、そのつらさの内実として、経済的な困窮もありつつも、女性パートナーの不在による孤独感や承認の欠如が大きいと指摘している[6]。 …

Wikipedia「弱者男性」より

「マジョリティであり強者であるとされる男性の中にも、
恵まれない者や不幸な者がいる」と説明がありました。
この「恵まれない」「不幸」=「弱者」とは
いったいどのようなことを指しているのでしょうか。

「『弱者』の定義は曖昧」ともありました。
男性の中の一部を「弱者」とする、この言葉の背景には、
先に私自身の認識として書かせていただいた
能力主義や資本主義、"モテ"などといった
競争原理が強く支配する男性社会における
「強者」⇔「弱者」という価値観
があると思っています。

 言葉の背景とその意義

「マジョリティであり強者であるとされる男性」とありました。
フェミニズムの視点に立つとき、
社会においては女性がマジョリティで弱者、
男性がマジョリティであり強者です。
そのため、男性の中で「弱者」とされる人たちの抱える困難は
理解がされにくく、見過ごされがちであるといわれ、
そんな男性の困難に焦点・関心が向けられるようにと、この
「弱者男性」という言葉が用いられるようになった
ということです。

 「悪用」される「弱者男性」という言葉

ただ、実際にはこの言葉を武器にして、
「弱者男性」である自分たちの困難のケアを
女性に求めようとする男性たち
が現れました。
その言説の具体例のひとつが「女性をあてがえ」論といわれるものです。
このことについては、以下の記事でわかりやすく解説されています。

◆「弱者男性」という言葉が覆い隠すもの

「弱者男性」という言葉は、
困難を抱えた男性たちに光を当てるために
用いられるようになった言葉だということを先に確認しました。

しかし、その言葉が用いられることによって、
いくつもの問題が覆い隠されてしまっている
と私は思っています。

以下、大きく二つのことがらについて私の見解を述べます。
私はそれらことを思いながら、初めの投稿の
「『弱者男性』という言葉は卑怯だ」という言葉を書きました。

 ① 男性による「女性差別」を覆い隠す

「女性をあてがえ」論を例に、「弱者男性」という言葉が
男性から女性への差別的な言説に使われるようになってしまった
ということについて先にご紹介しました。

「弱者男性」という言葉によって、
男性社会において下位とされる一部の男性たちが「弱者」と認識され、
その抱える困難に関心が向けられるようになりました。

しかしそのことが、
先の「女性をあてがえ」論のような言説に繋がってしまいました。
「弱者」が必要とし、当然受けるべき"ケア"を保証するという名目で、
その男性たちによる女性への差別的・暴力的な言動を免責し、
その加害性を覆い隠してしまおうとした
わけです。

その人がどのような状態であれ、
他者を傷つける暴力や加害行為が許されることがあってはなりません。
唯一、「正当防衛」という考え方はありますが、
「女性をあてがえ」論などの言説はこれには当てはまらず、それらは
男性による身勝手な差別的・暴力的行為の正当化にほかなりません。

一部の男性を「弱者」と呼び、その支援・"ケア"の名目で
男性による「女性差別」を覆い隠してしまう
……
「弱者男性」という言葉が一部の男性たちによって
そのように「悪用」されてしまっていることを思うとき、
私は「『弱者男性』という言葉は卑怯だ」と思っています。

 ② 男性社会が抱える問題を覆い隠す

前述の通り、「弱者男性」という言葉に含まれる
「弱者」という言葉の定義は曖昧であるといわれています。

しかし、そこにある「強者」⇔「弱者」という価値観は、
前述の通り、能力主義や資本主義、"モテ"などといった
競争原理が強く支配する男性社会の価値観の影響

多分に受けたものであると考えられます。

「弱者」といわれる男性たちが抱える困難の解決のためには、そもそも
その「強者」⇔「弱者」といった価値観を生んでいる
男性社会の文化や構造そのものに対する
批判的な視点やアプローチが必要
なはずです。

ところが実際には、
一部の人たちを「弱者男性」という言葉で呼ぶことで、
男性全体の抱える問題が、一部の「弱者」が抱える問題として
片付けられてしまっている、覆い隠されてしまっている
のではないかと思うのです。

簡単にいえばそれは
社会において「弱者」が生まれるのは仕方がないことであるとし、
「弱者」は支援すればよい、という考え方です。
「弱者」に対する支援は確かに必要ですが、
それだけでは根本的な問題の解決にはなりません。

それは例えば「子どもの貧困」という社会問題に対して、
「子ども食堂」を各地で開催することによって
まるで問題が解決したかのように考えてしまうことに似ています。
確かに、いま目の前でお腹を空かせていたり
居場所が無い子どもたちのために、
「子ども食堂」のような場を用意することは
とても大切で、必要な支援です。
しかし、それだけでは「子どもの貧困」という
社会が抱える根本的な問題の解決にはなりません。

根本的な解決ではないにも関わらず、
一部の「弱者男性」に焦点を当て、彼らを支援することによって
まるで問題が解決しているかのように考え、
(男性)社会全体が抱える問題を覆い隠してしまう
……
私はその意味でも、「『弱者男性』という言葉は卑怯だ」と思うのです。

◆「問題」「障がい」「罪」はどこに?

皆さんにお聞きしたいのですが、
私たちは(男性)社会において、
「弱者男性」という言葉で表される問題の
根本をどこに見出だすでしょうか。

 「医学モデル」という考え方

そのことを考える上で参考になるのが、
障がいの理解における「医学モデル」と「社会モデル」という考え方です。

障がいの「医学モデル」とは、
「障がい」といわれるものを、
「障がい者」と呼ばれる人たちが心身機能に抱える
個人的な問題であるとし、その個人に対する治療や支援によって、
問題の解決を図ろうとする考え方
です。

例えば、足が不自由で歩行に困難を抱えた人がいた場合、
「医学モデル」では、足の治療・手術等によって
その人の足の状態を改善させることを通して、
その人が抱える個人的な問題の解決を図ろうとします。

一方、障がいの「社会モデル」は、
「障がい」といわれるものを、
社会(モノ、環境、人的環境等)と個人の心身機能の状態が
あいまって作り出されるものであると考え、
それを個人的な問題ではなく、社会全体の問題として捉え、
その障壁を取り除くことを社会の責務として
問題の解決を図ろうとする考え方
です。

先ほどのような
足が不自由で歩行に困難を抱えた人がいた場合、
「社会モデル」では、その人に杖や車イス等の移動手段を提供したり、
段差の少ない歩きやすい道を提供したりすることによって、
社会が抱える問題の解決を図ろうとするわけです。
(もちろん、治療・手術等を行わないというわけではありません)

このような「社会モデル」の考え方は、
2006年に国連で採択された「障害者権利条約」において示され、
日本においては2011年の「障害者基本法」の改正において
採用されるようになりました。

「弱者男性」という言葉で表される問題も、
それを一部の男性が抱える個人的な問題と捉えるのか、
それとも、(男性)社会全体の問題として捉えるのかによって、
その解決方法も変わってくる
はずです。

近年、「障がい」ということがらが
「医学モデル」から「社会モデル」によって捉えられるようになり、
「障がい」や「障がい者」という言葉の使い方が
気をつけられるようになってきました。
それは社会が、「障がい」という問題を
「障がい者」個人の問題ではなく、社会全体の問題であると
認識し始めている証拠
であるといえるでしょう。

「弱者男性」という言葉もまた、
「障がい者」という言葉と同様、注意して使わなければ、
その問題を、一部の男性が抱える個人的な問題として押しつけ、
社会に存在する問題を覆い隠してしまう言葉になりかねない
のです。

 聖書における「罪」「罪人」という言葉

ここで、聖書においてもこれと重なることがらが
述べられていることをご紹介したいと思います。

聖書には、イエス・キリストの
生涯についての記録をまとめた「福音書」と呼ばれる書物が
4つ(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)あります。
それら「福音書」の中でイエスは、
聖書に頻出する「罪」「罪人」という言葉について、
様々な場面で繰り返し人々に教えています。

「楽園」(聖書では「エデンの園」)において
「禁断の果実」(聖書では「善悪の知識の木の実」)を食べたことで、
人類は「原罪」(原初の罪)を負うようになった、というのは
多くの方が知っている有名な聖書のエピソードかもしれません。

そこで出てくる「罪」「罪人」という概念は、
「裁き」「赦し」「救い」などの言葉と関連して、
キリスト教の中で絶えず議論され続けている重要なテーマです。

聖書の時代、イスラエル人・ユダヤ民族の社会においては、
この「罪人」という言葉を当てはめられ、
社会から阻害されていた人々がいました。
例えば、病気や障がいを抱えた人たちは、
本人または親族が犯した個人的な「罪」のゆえに
そのような困難を抱えることになったと考えられ、
「罪人」呼ばれ、本人もその家族も社会から阻害されていました。

しかしイエスは、当時多くの人々がそのように
個人的な問題であると捉えていた「罪」を、
社会全体が向き合うべき問題であると教えられました。

実際に聖書に出てくるエピソードに、以下のようなものがあります。

 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 弟子たちがイエスに尋ねた。
 「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、
  だれが罪を犯したからですか。
本人ですか。それとも、両親ですか。」
 イエスはお答えになった。
 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。
  神の業がこの人に現れるためである。

  わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、
  まだ日のあるうちに行わねばならない。

  だれも働くことのできない夜が来る。
  わたしは、世にいる間、世の光である。」 …

ヨハネによる福音書 9:1‭-‬5 新共同訳

イエスの弟子たちは、目の前の「生まれつき目の見えない人」を、
当時のユダヤ人の文化的・社会的・宗教的価値観によって
当たり前のように「罪人」であると捉え、
その人が抱える「目が見えない」という問題を
その人やその人の両親の個人的な問題であると捉えました。

しかしイエスはそれを否定しました。
その際、決して「罪」の存在自体を否定することはせず、
それがその人やその人の両親の個人的な問題ではない
ということを弟子たちに教えられました。

イエスは、私たち人間が直面する「罪」
「病」「障がい」といった問題は、
「神の業が現れる」場であるということ、
そしてその「神の業」は、「わたしたち」
つまり社会が「行わねばならない」ことであるということを
弟子たちに教えられたのです。

ご紹介したヨハネによる福音書9章の
「生まれつき目の見えない人」の物語は、
その人が救い主イエスと出会い、
個人的な癒しの奇跡と救いを体験したという物語なのではなく、
その人が抱える問題を、周囲の人々が
自分たち社会全体の問題として引き受けていくという物語
なのです。
(残念ながら実際には、それができない人々の姿が
 皮肉っぽく描かれています。)

 「あなたがたの間にある」

聖書やキリスト教において語られる
「罪」や「罪人」、「赦し」や「救い」ということがらは、
「障がい」や「弱者男性」の問題と同様、
往々にして、人の個人的な問題として捉えられがちです。
それは、信仰をもつ人をより一層周囲から孤立させ、

時に妄信的、独善的な世界へと
私たちを迷いこませてしまう
ことさえあります。

しかしイエスはそれらを、
決して個人の問題として片付けてしまうのではなく、
私たち社会全体のことがらとして捉えるようにと
教えているのです。

イエスは、神による「救い」の象徴である「神の国」について、
それは「あなたがたの間にある」と語られました。
まさに、私たちを取り巻く問題とその解決の視点は、
私たち社会の間にあるのです。

 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、
 イエスは答えて言われた。
 「神の国は、見える形では来ない。
  『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。
  実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。

ルカによる福音書 17:20‭-‬21 新共同訳

◆社会の一員としての私

 宗教・キリスト教・教会・牧師の役割

今回、初めの投稿に対する様々な反応の中で、
社会にさえ見放された『弱者』が
 最後の頼みの綱として駆け込んだ宗教にさえ見放されたら
 いったいどうしたらよいのか

というような言葉がありました。

しかし、実際のところ
宗教施設における具体的な支援には限界がある
という事実をお伝えしなければなりません。
特に、日本のほとんどのキリスト教会には
医療や福祉、法律や制度などに詳しい専門家もいませんし、
地域社会からの寄付もほとんど無いため、
経済的に支援をする財力もありません。

実際に、具体的な助けを求めて来られた場合には、
社会におけるそれらのリソースにお繋ぎすること
くらいしか残念ながらできることがないのが現状です。

本当は、社会におけるそうした支援自体から
ひとりもこぼれ落ちないようにするべきでしょう。

そこからこぼれ落ち、最後の頼みの綱として
宗教施設に具体的な支援を求めてくるのは
もう最終手段であるはずなのです。
そんなことは、実際には無いほうがよいのだと思います。

ただ、万が一そのようなことがあった場合には、
できる限りの形でお助けしたいという思いはあります。
教会において具体的にできることには限界がありますが、
前述の通り、社会的資源・リソースへ繋ぐこと、
それら同士の隙間を繋ぐことが、宗教・教会、また私のような牧師の
社会における役割なのではないか
とも思いつつ、
できるだけ広く、地域社会の様々な方と繋がることができるよう
常日頃から努めているところです。

教会に、キリスト教に
私自身に限界があることもまた
私の個人的な問題としてしまうのではなく、
社会全体の一部として捉えることによって、
決してそのことを悲観するのではなく、
繋がり合い、共に社会の問題を担い合っていく
そのような意識をもつことができる
と思っています。

 男性社会が抱える問題

私は自分自身も男性のひとりとして、
多くの男性が抱える問題が「弱さ」であり、
またその「弱さ」をなかなか認めることができないことである
と、そのように思っています。
(この「弱さ」が具体的になんであるかについて、
 私が自覚していることについては初めの投稿に書きました。
 更に詳細に考察した内容を、いずれ記事にしたいと思います)

繰り返し述べている通り、男性社会というのは、
能力主義や資本主義、"モテ"などといった
競争原理に基づく「強者」⇔「弱者」という価値観や
ヒエラルキーが強く支配する社会です。

そこでは男性が「弱い」ことは悪いこと、
あってはならないこと、恥とされるため、
多くの男性は自分の「弱さ」を認めることも、
またそれについて他者に開示し、
助けてもらう、支援を受けることも困難です。

しかも、それら男性が抱える「弱さ」は、
多くの場合、その人の個人的な問題であると捉えられがちです。
ここまで述べてきたように、「弱者男性」という言葉もまた、
問題をその人個人に押しつけることに一役買っている面が
あると思っています。

そうした結果、社会は多くの男性を孤立させ、
最悪の場合には、ひとりで命を絶つ決断に
至らせてしまうことさえあるのです。
そんなことはあってはならないことです。

そのような男性の孤立を防ぐためには、
「弱者男性」が抱えるとされる問題を
決してその人個人の問題とせず、
私たち(男性)社会の問題として引き受け、
その解決に取り組んでいくことが必要です。

支援を必要としているその人も、私も、
それぞれに「弱さ」や限界を抱えているけれども、共に社会の一員です。
イエス・キリストが「わたしたちは業を行わなければならない」
「神の国はあなたがたの間にある」と言われたように、
問題もその解決も、私たちが形作るその社会の間にあります。

それらは決して個人的なことではなく、「自己責任」といって
個人に押しつけられることでもありません。

「弱者男性」という個人に対して支援を行うことで
何か問題が解決したかのように思ってしまうのではなく、
そもそも「弱者男性」と呼ばれるような男性を生まない
そんな(男性)社会を実現するために

(男性)社会全体が抱える問題について
考えていきたいと思うのです。

ーー

今回の記事は以上です。
最後までお読みいただきありがとうございました。

記事の中でも一部ご紹介しましたが、
男性社会が抱える問題について、
男性同士で共に語り合い、考える場として
「メンズリブ」の会を行っています。
興味のある方がおられましたら、
メール・DM等からご連絡ください。

また、こちらも記事でも書きましたが、
私自身は普段、ふじみ野バプテスト教会というキリスト教会で
牧師として働いています。
聖書やキリスト教、教会に関心のある方は
どうぞホームページをご覧ください。


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