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鯉八師匠の落語の苦味

なんてこった。

もしかしたら、わたし、瀧川鯉八の落語とは相性がよくないのかもしれない。いや、むしろ相性がよすぎるのか……?

とにかく毎回、困るくらいに心が動きすぎるのだ。

「瀧川鯉八の落語を聴くには、わたしは未熟すぎる」

というのが素直な今のきもちだ。
なーんてこったい。

というのも、彼の落語を聴いた帰り道、いや、帰路につくもっと前、落語を聞いている最中から、もう苦しくって苦しくって、たまらなくなるのだ。もちろんネタによるが、笑いに包まれる会場に身をおきながら、宇宙に放り出されたような感覚に陥ることがある。春先からそんなことが続いている。

いやいや、鯉八師匠の落語は、何度聴いたってめちゃくちゃおもしろいし、いつ聴きに行っても会場の雰囲気がやわらかくて大好きだ。落語の外でも、ちょっとした発言がおもしろくって、目が離せない。相変わらず敬愛してやまない落語家だ。

しかし、だ。4月くらいからか、彼の落語を聴いて面白おかしくて笑いながらも、その中にたしかにザラリとした感触の「苦味」みたいなものを色濃く感じるようになったのだ。「うぐっ……」とダメージをくらってついつい胸のあたりを押さえてしまう。おそらく自分のコンディションがあまり良くないのだろう。

鯉八師匠の落語をたくさん聴きたい、もっと知りたい。だが、そのきもちとは裏腹に、最近は会場に向かう足が重い。チケットを予約するのにも躊躇する。なんだか怖いのだ。


そんな折、昨日5月15日に「渋谷らくご」、通称シブラクに行ってきた。瀧川鯉八がトリの回だ。
(ちなみに、実のところ昨日は行くつもりはなかったのだが、近所の人に「今日も落語?」と訊かれて「うむ、じゃあ今日も落語だな」という気分になってしまったのだった。)

そんな昨日のシブラク、結果的に行ってよかった。なぜなら最近感じている「苦味」の正体がわかった気がしたからだ。

「追体験」。鯉八師匠の落語はわたしにとって「追体験」なのだ。「トリガー」ともいえるかもしれない。サヨナラしてきたはずの過去のあれこれ・今まさに目を背けているものを、残酷なくらいにポップに鮮やかに再現されている気がして、直視するのがツラいみたいなのだ。そしてそれが本来は面白おかしくて笑えるはずの噺であるのに、まわりと同じように笑い飛ばせないという事実が、最近は苦味に拍車をかけているらしい(自分の反応に自分が一番戸惑っている)。

そんな苦味の正体にハッと気づかせてくれたのが、鯉八師匠の『最後の夏』だ。

『最後の夏』は、甲子園をかけた重要な試合でエラーをした2年生・吉田に、監督がたたみかけることで話が展開していく。言葉を発するのは監督だけだが、その場には吉田と、3年生らチームメイトがいるのが分かる。

この噺を聴いたのは初めてではない。ともとも得体の知れないトゲトゲとしたユーモアが魅力の噺だが、昨日はほとんど笑うことができなかった。おもしろおかしい以上に、苦しすぎて。というか、泣いた。涙が止まらなかった。だって、監督も吉田も3年生たちも、いつかのわたしだと気づいてしまったからだ。

エラーをした吉田に対して、遠回しに、でも着実に相手が察するように、罪悪感をあぶり出すように、弱いところをめがけて、これでもかと間髪いれず浴びせる監督の鋭利な言葉・あからさまな態度。それを泣くことも許されずただ受け止めるしかない吉田。その2人を何も言わずただ見てるだけで監督に言われるがままの3年生たち。

どれもわたしなんだ。生まれてから26年のどこかしらに絶対にいた。今もきっといるだろう。しかもどれもが、わたしが好きになれなかった、わたしだ。

こういう感覚を覚えるのは、『最後の夏』だけではない。『都のジロー』『笑う太鼓』あたりもそうだ。幼いころ、学生のころ、社会に出てから、転職してから……奥のほうにギュウッと押し込めてた記憶、忘れていた黒くて重くてドロリとした感触が引きずり出される。だから落語としておもしろいのがわかっていても、笑うなんて、今はまだできそうにない。笑いとばせるほど、いろんなものを許せていない。

落語なのだし、物語は物語として、本来はもっとシンプルに楽しめたらいいのだが……。しかしわたしはどうやら、共感をしすぎる・感じとりすぎる・考えすぎる・何より自意識が強すぎるところがあるらしく、なかなかそれができない。まずもって、自他を区別しきれていないし、受け止めきれていないし、うまく処理もできていないし、何よりダメージをくらいすぎなのだ。わたしは瀧川鯉八の落語を聴くにはまだまだ未熟だ(発展途上だと信じたい)。

とにもかくにも、こんなに心が動かされるのは、やっぱり鯉八師匠の落語の緻密さゆえなのだろう。解像度が高いが、十分な余白がある。わたしとしては苦しくて苦しくて逃げたくなるくらいだが、こんな経験も含めて芳醇な世界を見せてくれる鯉八師匠はやっぱり大好きな落語家だ。

だが「好き」と「相性」は別ものだ。きもちとしては、同じ噺も何度だって聞きたいし、まだ生で聴いたことのない噺にもたくさん出会っていきたいし、できるだけ現地に足を運んで鯉八師匠の落語を浴びたいと思っている。何も知らなかった1月下席はキラキラしたきもちを胸に、毎晩のように末廣亭に通うことだってできた(↓の記事、いま読むとほんと笑っちゃうくらい脳内お花畑で読み直して白目むいちゃうな)。

だが今となっては、1月のような頻度はちょっとむずかしそうだ。身がもたん。苦しすぎるのだ。受け止めきれない。昨日の投稿で「熱を保つためにはリズムが大切みたいだ~」なんて話を書いたが、鯉八師匠についてはスローペースでいきたい。こんな調子なので、おこがましく推しだなんていえないんじゃないかという気さえしている。

ちょっと話がずれるが、昨日のシブラクに出演されていた春風亭昇羊さんが「鯉八師匠が『ぼくの落語を聴きに来るお客さんはぼくすらも見ていない』と言っていた」という旨の話をしていた。わたしに関していえば大正解かもしれない。この記事自体が物語っているが、わたしはたぶん瀧川鯉八の落語を介して自分自身を見ているのだ(と、書いてしまったが、ちょっと重すぎるな?)。

わたしにとって瀧川鯉八師匠の落語は「追体験」であり、それを聴いて、打ちのめされて、咀嚼しながら時間をかけて回復する一連の流れはもはや「スクラップ アンド ビルド」といえよう。現状、聴くのにかなりの勇気とエネルギーを要するし、毎度それなりにダメージも受けてしまうし、その後の回復にもわりと時間がかかってしまう。しかし大事なのは「ビルド」の部分だ。逃げて逃げて逃げて逃げまくってきたものを、ほんの少しずつでも認めて許せるように、笑い飛ばせるようになっていく過程の真っ只中にいるのだと思う。そう信じたい。

たとえそうでないとしても、瀧川鯉八の落語を聴いていたい。無理のない範囲で。こんな素晴らしい天才とせっかく同じ時代を生きられているんだもの。こんな独りよがりの苦しみさえも、他ではなかなか味わえない贅沢な体験なのだ。

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