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今日もごはんをつくる君は、ハイパーえらい

先日のnote「時空を越えるアメリカンドッグ」の中で、本題のアメリカンドッグよりも、一部の方から強い熱量で反響をいただいた箇所がある。

それが、ここ。

食材の買い出しで近所のスーパーにいたわたしは、自分のごほうびになにかジャンキーなものを買ってやろうと決めた。

“家族の夕飯づくり”という地味で欠かせないミッションにとりかかるためには、まずそのための燃料が必要なのである。

何気なく書いたこの部分に、同じく各家庭で“ごはん係”を担う方々から、「めっちゃわかる!」と強い共感をいただいたのだ。

たとえばこんなふうに。

最後のかんなさんのツイートでいただいた「家族の正しそうな食事は、おかんのジャンキーな燃料で作られてます」って表現は、まさに!と思って、なんだか爽快な気分に包まれた。

たしかに、たしかに。

離乳食で、かつお節や昆布からていねいに出汁をとったり、薄味に気をつけたりして意識的に「体にやさしい食事」をつくっているときすら、それをつくる母のエネルギー源は、片手で放り込むチョコやスナック菓子だったりした、事実。

必要なのだ、ごはんづくりの燃料。

* * *

ところで、こうしていただいたみなさんの声をみて、ああよかった、わたしだけじゃなかったのかと思った。なんだかとても、ホッとした。

だって世の中のお母さん方、外から見ていると“お料理得意で楽しんでやってます”または、“別に料理得意じゃないけど計画立ててそつなくこなしています感”がすごいのだもの(※お父さんやその他の方が担当されているご家庭もあると思いますが、わたしの周囲でよく見る光景ではということで)。

専業主婦の方は、ていねいな下準備のほどこされた材料で毎日バリエーションにとんだ彩り豊かな食卓を。はたまたワーキングマザーの方なら、週末の作りおきや時短レシピを駆使して効率よくシステマティックに。

みんな、すごいなあ……。

一方でわたしはといえば、「毎日の夕飯づくりやっているなんてそれだけでわたし超すごい」とか、「手抜きメニューでも毎朝ごはんを提供しているなんてそれだけでわたしハイパーえらい」と自分で自分を過度におだててあげながら、なんとか日々をくぐりぬけている。

手軽なメニューしか作っていないのに、それでも毎日、夕方前には一日の疲れで「ああもう夕飯づくりなんてなければいいのに」と思い、現実逃避がしたくなる。

でも逃避したところで別の誰かがつくってくれるわけはなく、自分が慌てるだけ。それがわかっているので仕方なく、「エイヤッ!」と気持ちを奮い立たせるために、燃料を入れるのだ。

それはチョコレートだったり、どら焼きだったり、スナック菓子だったり、この前みたいにアメリカンドッグだったりもする。何もないときは、冷蔵庫に残っていたちくわをかじっていたり、焼海苔でスライスチーズはさんで食べていたりすることもある。

たいてい行儀を気にする余裕もなく立ち食いで、だからそれは「おやつを食べる」というよりは「燃料を入れる」という表現がぴったりなのだ。

大切なのは「私はこの燃料を入れたから夕飯づくりを遂行できる」と暗示をかけながら食べること。そうすることで、その日も我が家の食卓には無事、ごはんが並ぶ。

ミッションを完遂したわたし、ハイパーえらい。

* * *

そうやってなんとか平日をくぐりぬけても、週末は気が抜けて「がんばれない休みたいラクしたい」となり、最近はネジがゆるんで、休日の昼食はけっこうスーパーのお惣菜に手を出している。

晴れていればピクニックと称して家族で出かけ、芝生の公園でそれを食べる。気分が変わるのでまあそれも楽しい。それで「ひとコマ休み」となり、なんとかその日の夕食が作れる。そんな体たらくだ。

そんな中、我が家では2ヵ月ほど前からついに、日曜日の夕食づくりを夫が引き受けてくれることになった(前々からつぶやいていたことがついに現実になった)。これはとても大きな一歩である!

“地味で欠かせないミッション”が表すとおり、このミッションの大変さは、料理そのものではなく、「毎日毎日やっても終わらずに続く=休めない」「あって当然と思われている」というところだ(わたしは料理が嫌いなわけではない。むしろ切ったり炒めたりする作業自体は好きだ。単発なら楽しめる方だ)。

家族のためのごはんづくりを主体で担っていない方から見ると、「お惣菜に頼ればいい」「外食すればいい」「毎日同じメニューでいい」という方もいらっしゃるかもしれない。たしかにわたしも、ひとり暮らしの冬なんて毎日ひとり鍋していたし、お惣菜や外食を選ぶ日もあった。

でも、家族のごはんとなるとちょっと心情がちがう。

「今日は自分が休んだせいで家計を圧迫している」「自分が休んだせいで家族の健康にあまりよくないとわかりつつ食べさせている」「自分のせいで家族に似たようなメニューばっかり食べさせている」という意識は、いくらわりきってもなかなか“ゼロ”にはならない。

こんなに「毎日のごはんづくり大変」と連呼しているわたしですら、じゃあ毎日をお惣菜と外食にするかと言われたら、NOと答える。理由はいま述べたとおりで、結局自分が納得いかないから。しかし、誰かが代わりに健康にも家計にもやさしい家庭料理をつくってくれるというなら、答えは遠慮なくYES!なのである。

ちょっと話がずれたけれど、だから週に一食でも夫に夕飯づくりを担ってもらえる、それがこちらから逐一お願いするんじゃなく予定として決まっている、という状況は大変にありがたい。大改革であり、大感謝である。

欲を言えばゆくゆくはもっと回数が増えたらなあなんて思っているけど、いまの状況でこれ以上の贅沢は言うまい。将来、わたしがもうちょっと稼げるようになったら、そのときには交渉してみよう。

あ、でも食材の使い方をコントロールできるという意味では月交代のほうがいいかな。というか書きながら思ったけれど、たぶんわたしは、交代じゃなくて一度きりでもいいから、「一か月以上連続で家族のための夕食を作り続ける」って経験をしてみてほしいだけなんだろうなあ。

そうすればきっと、毎日の“名もなき地味な夕食”がもっと貴重なものに思えて、自然と感想や感謝の気持ちがわいて出るようになるんじゃないかな……。わたしが家族のためのごはんをつくるようになってから、母の偉大さを改めて、再発見したみたいに。そう、自分だってわかっちゃいなかった。やってみなきゃわからないことって、ある。

それにさ、もし実感をともなった心からのありがとうを受けとり続けたなら、この地味で欠かせないミッションのやる気もアップして、そもそも交代したくなくなるかもしれないしね。

……なんて、そんな妄想を繰り広げている世のごはん係の方は、他にもいるんじゃないかと思うのだけど。どうでしょう。やっぱ、少数派かな。

* * *

さあ、今日の燃料は、何にしようか。

本日も、だれに頼まれたわけでもないのにごはんをつくり続けるわたし、ハイパーえらい。

もしここまで、このダラダラした文章を頷きながら読んでくれた方がいるとしたなら、きっとあなたもハイパーえらい。

ご家族にかわって、わたしが言おう。

来る日も来る日も、だれに言われるわけでもなく自主的に、家族それぞれの健康や好みや、家計や、冷蔵庫の中身なんかを複合的に組み合わせた献立を考えて、それを当たり前のようにつくり続けてくれて、ほんとうにありがとう。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。