ある日の交差点で

病院へ歩いてゆく途中、横断歩道の手前で信号を待っていた。

いわゆる歩行者用の信号がない交差点で、歩行者も車用の信号で赤、青を判断してわたるようなところだ。

車がまばらだったこともあり、制服姿の中学生らしき男の子が、ヒューンと自転車でわたしの横を通り過ぎ、赤信号の横断歩道をわたってゆく。

風邪でふらふらするわたしはもちろんおとなしく信号を待っていた。少し距離を置いて、わたしより少し年上かなという感じの女性が、自転車にまたがって同じように待っていた。

そのとき、後ろから来た小学校1、2年生らしき男の子の二人組が、そのまま止まることなく、二人でしゃべりながら横断歩道をトコトコと歩き出したのである。

たぶん、前の中学生が自転車をこいでためらうことなくヒューンと進んでいったこと、目の前に車の往来がなかったことで、まさか信号が赤だとは思いもよらなかったのだろう。歩行者用の信号がなかったことも、大きな原因だったと思う。

このときすぐに何のためらいもなく「赤だよ!」と言えていたなら、いまわたしはたぶん、このnoteを書いていないはずだ。

* * *

ただ実際は、あまりにナチュラルに進んでいったものだから、“あれ?青だったかな?”と思って信号を二度見した。けれどやはり、まだ信号は赤のままだ。その間にも、二人は小さい足どりでてくてくと進んでゆく。

どうしよう。声をかけるべき?

でも左右を見るかぎり、このペースでいけば、安全にわたりきれそうだ。心の中でそんな分析をする前にまず声を発すればよいのに、その間に二人はもう、道路の真ん中一歩手前あたりへ進んでいた。

遠くから、わたしたちのいる手前側の車線に近づいてくる車が見える。この状況なら、今からこちらへ戻ってくると逆に危険だ。それならもう、向こう側へわたっていったほうが。幸い向こう側の車線には近づいてくる車も見えない。ああ、でも、その小さな足どりで、大人の思うような速度でわたれるとも限らない。どうしよう、だいじょうぶかな――。

風邪で自分の頭がぼーっとしていたというのは言い訳だと思う。ただ思考回路がいつもよりクリアでなかったのは確かだ。ああどうしよう、と時間にすれば数秒、そんな逡巡をしていると、右から声が飛んできた。

「赤だよー」

わたしと同じ側で信号待ちをしていた、自転車の女性だった。

その声を聞いて、ハッと我に返った。

* * *

声を聞いた小学校1、2年生らしき二人組は「え?」とこちらを振り向いて、「やばい、赤だって!」とどちらかが言い、二人とも全速力でこちらへ駆け戻ってきた。

横断歩道はもう半分わたりきっていた。そのうえこちら側の車線は車が向かってきていて、向こう側の車線は車が来ていない。その状況なら、大人から見ればもう、向こう側へわたったほうが安全だと思うのだけれど、そんな冷静に状況判断をする余裕はなかったのだろう。

「赤信号はわたってはいけない」。その認識だけを強くしっかりと持っていたから、たぶん「戻る」ことしか考えなかったのではないかなと思う。

「やべーやべー」。そう言いながら走ってこちらへ戻ってくる小さな少年、二人。

遠くに見えていた車は、もう横断歩道のすぐそばまで近づいていた。ドライバーがあらかじめ気づいて減速をかけていたからよかったものの、もしそうでなかったら、とりかえしのつかないことになっていたかもしれない。

* * *

時間にすれば、ここまでほんの1、2分のことだ。

でもそのあと、わたしは道を歩きながら、病院の待合室で診察をまっている間もずっと、このワンシーンのことを考えていた。

最初は単純に、声をかけた自転車の女性のことをかっこいい、と思い、自分は声をかけられなくて恥ずべき大人だ、という感情だけだった。

でもそこから少し冷静にふりかえってみると、もはや女性が声をかけた時点ではむしろ、そのまま進んでいたほうが安全だったんじゃないか、という気持ちも出てくる。

ではどうすればよかったのか。

それはたぶんやはり、男の子二人組がナチュラルに横断歩道に足を踏み出した時点で、即座に声をかけるべきだったのだろう、と思う。

ではなぜ、わたしも、最終的には声をかけたあの女性も、その時点ではことばが出なかったのか?

信号無視を見慣れているからか。車がきていないのを見て「たぶん大丈夫」と思ったからか。風邪でぼうっとしていたからか。あまりにナチュラルで声をかけるタイミングを失ったからか。「よその子に口をだすべきじゃない」という習慣がこんなときでも身についてしまっているからか。

たぶん、そのどれもがちょっとずつ組み合わさって、声をかけるのが遅れてしまったのだと今は思う。

そのあとも家に帰って時折そのシーンを思い返し、さらに思った。

もしあれが自分の子だったら、あの年頃なら、絶対に親の責任だと思って手をひいて止めるだろう、と。自分の子だけじゃない、近所の顔見知った子ならば、たぶんすぐに「危ないよ!」と声をかけることができたと思う。もしかすると自転車の女性には近しい年齢のわが子がいて、姿が重なったのじゃないかと、勝手な想像をしてしまう。

じゃあなぜ、それが「見知らぬ子」だったら一歩、踏みとどまってしまうのだろう。そう考えていて、おとなの歩行者の信号無視は見慣れてしまっていることと、そんなおとなの信号無視に遭遇しても“結局その人の責任だから“と捉えている自分や社会があることに気づいた。

あたまのなかに、最近も議論を呼んでいた“自己責任”というワードが浮かぶ。

たしかに大人の歩行者が左右を見ながら道路を横断するならば、それはそのひとの責任といえるのかもしれない。けれどその風潮というか、その感覚が、まだ判断能力の発達中であるこどもに対しても、無意識に、ワンクッション、適用してしまっている自分に気づいて、ショックだった。

ああそうか、なあんだ結局わたしも、潜在的にはそんな社会にすっかり染まっているんじゃないかと、なんともいえない気持ちを味わった。

* * *

「他人の子どもを怒れなくなってひさしい」という話はよく聞くけれど。

「社会全体で子育てしましょう」というフレーズも、ことばとしては耳にタコができるほど、とてもよく聞くのだけれど。そんなことばたちは、するすると耳をとおりすぎてゆく。

けれど、自覚できていなかった「よその子」という“無意識”が、だれかの「わが子」の命をうばうことになったかもしれないと考えると、ぞっとする。

ひとの子に対して、何をどこまで注意するべきか、その線引きはむずかしい。けれど少なくとも、今回みたいに命に直結するシーンでは、躊躇なく口を開こう。そう思わされた出来事だった。

多少のおせっかいおばちゃんに、積極的になっていこうと決めた。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。