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センチメンタル母ちゃん

最近、かつてなら気にも止めなかったようなことですぐに「うるっ」ときてしまって、そうかこれが年を重ねてゆくということなんだな、と思う。

週末、近所の公園で小さなイベントがひらかれ、地元中学校の吹奏楽部が30分ほど演奏をするという機会があった。

ちょうど夫が出張中の週末で、娘を連れて自転車でパッと行ける距離におもしろいものないかなあと思っていたので、事前にビラを見かけて、あらこりゃいいわと母はひそかに楽しみにしていたのだ。

もうはるか昔だが、中学時代に吹奏楽部でサックスを吹いていた身としては、行かないわけにいかないじゃないか。

* * *

その公園はちょっとした池があって、鴨やカメなんかも泳いでいる。あわよくばちょっと早めにでかけて、池のまわりを散歩して……なんて妄想していたけれど、まあ子連れのおでかけなんて99%予定どおりに出発できない。

結局、演奏予定時刻5分前になってようやく家のカギを閉め、階段ブームで自分でおりたがる娘を支えながらえっちらおっちらマンションの階段をおりる。自転車のうしろに娘をのせてヘルメットをかぶせ、びゅーんと自転車をこいでゆく。

ところで本筋とはまったく関係ないが、子乗せ電動自転車という移動手段は気候さえよければ最強だ。どこへ行くにもベビーカーを押してえっさこらさと長い道のりを歩いていたあの頃を思い出すと、瞬間移動を身につけたくらいの快適さがある。起動性が高いので近所なら車より早い。ビバ自転車。開発者の皆さんありがとう。

* * *

おっと話がずれた。そんなわけで、公園はあっという間に近づいてくる。

我が家から向かうと入り口は逆方向になるので、公園を横目に見ながら、ぐるりと周囲をまわって入り口へと走る。

すでに吹奏楽部の中学生たちが、集まって並んでいるのがちらりと見えた。おそろいのユニフォーム。その瞬間、心の奥のほうにある古い記憶がチリッ、とする。

つづいて聞こえてくる、金管楽器のチューニング音。あのやわらかい音はユーフォニウムだろうか。次第にいろいろな楽器の音が入り混じり、厚みを増してゆく。

前を向いて自転車を漕ぎながら、風とともに入ってくる音を耳だけが聞いている。音の重なりが増してゆくにつれて、厚みをもって迫ってくる感じが、どんどんと古い記憶の引き出しをあけてゆくようで。チリッ。チリッ。

たまらなく心がざわざわしてくる。

* * *

公園の入り口横に自転車を止めて、娘をおろした。

すでにご近所の方々がバラバラと集まり、立ち見で見学している。その隙間をぬって、娘を抱っこして、前の方へ行かせてもらう。娘をおろして、しゃがむ。ちょうどこれから演奏がはじまるところだった。

なんてことないそんな光景の中、もうなんか、わたしはひとり、中学生が並んで楽器をもっている姿を見るだけで、だめだった。誰も泣いていない空間で、ひとりだけ泣きそうだった。

道中、チューニング音からざわざわしていた心が、実際にあの頃の自分と同じ年代の彼らが、キラキラ光を反射させる楽器を持って整列しているのを見て、もうなんともいえない感情がうわっとこみあげてきて、「うるっ」ときてしまった。ああ、年とったなあ、と頭の一部では冷静に思いながら。

安っぽい表現だけれど、どうしたってあの頃の自分と重なってしまう。もう二度と戻らないあのころ。家と学校の中だけが自分の知る世界で、部活動に明け暮れ、友だちとああだこうだやってめんどうくさかったりもしたはずのあのころ。でも確実に、自分が人生の主役以外のなにものでもなかったあのころ。世界は自分が中心にいるのだと思っていたあのころ。

子が生まれてから子連れの友人と、子をもたない友人たちと複数で会ったとき、子をもってからのパラダイムシフトをあらわす表現として「もう自分が主役の人生は終わったと思った」と言っていた子連れの友人がいた。

そしてその感覚は、とてもわかる。いや、あきらめているわけじゃないんだ。やりたいことはこれからもやってゆく所存なんだ。でも圧倒的に「主役観」は変わったよね、ガラガラと音を立てて。それは事実としてある。

後悔しているわけじゃない、新しい幸せのかたちを、いまだかつてない幸せと感じている。それは事実。でもその新しい形を受け入れて、これからはその人生を生きていこう、と考えているからこそ、戻らないあのころの純粋な主役観に、これほど心を動かされてしまうんだろう。

シンプルに、生きていた。

* * *

公園の片隅でいきなりセンチメンタルになっているそんな自分をさとられまいと、わたしは必死で「母」を演じようとする。ほうらわたしは、娘に生演奏を見せたくて来たんですよと、いかにもな母を。ほんとうは自分のために来たのかもしれないけれど。

娘は、突如目の前にピカピカの楽器をもってあらわれたお兄さん、お姉さんたちを、食い入るようにじいっと見つめていた。

演奏はすぐに始まって、こどもたちがよく知るアニメの曲をふんだんに取り入れてくれていたので、のりやすくてとても楽しいミニコンサートだった。

一生懸命に演奏する様子も、ソロパートの子たちが前へ出てきて、演奏を終えて拍手を受けるその感じも、ちょっとだけダルそうな恥ずかしさを含んだダンスも。その全部がほほえましくて、なつかしくて、まぶしくて、いいねえ、いいねえと眺めてしまう。

かたや観客側に目をうつせば、前のほうのベストポジションには生徒の父兄と思われる年代の方々が、たくさんビデオカメラを構えて我が子たちの勇姿を記録している。そのようすさえも、今のわたしにはぐっときてしまうのだ。

きっとわたしはその間で、中途半端にぐらぐらと揺られている。

これは想像だけれど、自分の子が中学生や高校生になれば、自分よりもこどもと重ねることのほうが増えるのかもしれない。いま、たいへんに未熟な母であるわたしは、まだかつての自分と重ねてしまう。

そうやって少しずつ、順繰りに、世代が入れ替わってゆくのだなあ。

「すごいねえ。お姉さんお兄さん、じょうずだねえ」

感情をぐっと飲み込んで、落ち葉のなかに立つ娘をすっぽりと両手でハグしながら、笑顔をつくってその耳もとで声をかける。

心の中にはいろんな感情がぐるぐると渦をまいていて、そうやってシンプルなことに集中していないと、涙があふれて嗚咽してしまいそうだった。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。