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『服と人 −服飾偉人伝』 VOL.10

日本のファションブランドは、この人・このブランドを無くしては語れない。そんな偉人の生き方を通じて、ファッションだけでなく生きるヒントを伝えたい! その想いで、YOUTUBE動画を制作しているのが「服飾偉人伝」です。動画を撮る上で制作した原稿をこちらに公開していきます。「読む服飾偉人伝」として楽しんでいただければ幸いです。
動画で見たい方は、こちらから再生できます。

さて、今回は10回目、TOGAデザイナーの古田泰子 編です。
2022年下半期、かつて国を引っ張っていたリーダーの思いがけない訃報と今まで気がつかなかった様々な癌が転移的に発見され、日本中が混乱と不安ムードに包まれた。だからこそ、ファッションの力で未来は変えられるのではないか?という期待を持ちたくなった。どんな時代に生きようともファションとは自分の生き方を肯定するための道具であって、なりたい自分になるための魔法でもある。TOGAの服には、そんな力があると私たちは確信し、声を大にしてみんなに伝えたい。”ファッションの力を諦めない”強い意志を持った女性「古田泰子」氏の生き様はカッコ良いんだよと。

私達なりに、追いかけたTOGAのストーリーをぜひ最後までご覧ください。

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01.言葉

画像引用:https://fashionpost.jp

TOGAデザイナー古田泰子はイノベーションに燃えた眼をしている。そんな彼女の言葉を紹介したい。

"私は単にクチュール主導や技術をベースにしたファッションではなく、よりアイデアをベースにしたファッションに興味がある。"

間もなく登場 TOGA ARCHIVES x H&M

"好奇心旺盛で、変化を恐れず、ブランドを通じて新しい価値観を見つけ、再定義することが『TOGA』の考え方です。それらのアイデアが人々の心に響き、服に新たな目的を見つけてくれることを願ってデザインをしています。"

間もなく登場 TOGA ARCHIVES x H&M

"コンセプトとしては、性別ではなく、シチュエーションで決まる服を作りたいと思っています。理想は、着たい服を着られる社会ですね。ここ数年、ウィメンズラインのモデルには男性として自身を表現する人を起用したり、その逆もあったりして、複眼的に検討してきたことでもあります"

間もなく登場 TOGA ARCHIVES x H&M


02.生い立ち

画像引用:https://www.fashionsnap.com

古田泰子は1971年、3姉妹の末っ子として岐阜県に生まれる。一番上の姉とは7つ歳の差があったことから、大層可愛がられて育った。
当時は、末っ子といえばお下がりが当たり前の風潮があったが、新しい服を買ってもらえる事が多かったと言う。

そのせいか、幼い頃からファッション感度の高い子供に育ち、服を選ぶたびにセンスが良いと家族に褒められた。
また、小学校の入学式ではツイードのスリーピースという渋いトラッドスタイルを自身でコーディネートし周りを驚かせ、小学1年生のときにはすでにデザイナーを志していたという。


”小学生の時の夏の旅行で着たいワンピースがなくて、自分で作ったことを覚えています。
新聞紙を型紙のようにして「ここに肩紐をつけたらドレスになるかな」とか「ウエストはゴムを入れて、共布(ともぬの)のベルトを付けよう」とか考えて。
生地屋さんに行って自分で選んで買った、マドラスチェックの綺麗なパープル色が印象に残っています。

fashionsnap.com

また、エレガントなファッションを好みメインストリームを進む姉2人と比べられることへの反骨精神から、ユニークな視点を探すような子供だったという。

03.破天荒少女

中学に進んだ古田は、サブカルチャーにどっぷり浸かりテクノカットの容姿と周りから浮いたオマセな存在だったという。
推しのアイドルといえばヴィヴィアン・ウエストウッド。姉たちが読んでいる雑誌『an・an』に掲載されていたヴィヴィアンのクリノリンスカートに一目惚れ、数10万円するスカートを手に入れるために、隠れてバイトをしたという。

高校進学の際には、すでにファッションを専門にする心算であったが、両親に反対され普通科の高校へ進学する。
普通科の高校は派手なヤンキー風のチームとおとなしくて真面目なチームの2つ。どちらにも属することがなかった古田は、浮いた存在だったという。
また、古田の人間性を物語るエピソードがある。

”ある日、森万里子さんのベティちゃんのような髪型に憧れ、髪をベリーショートにしてピンカールパーマをかけました。
その時の美容師さんが、私が高校生だと知らなくて「色も変えてみよう」と。その提案を受け入れて、新しい髪型で学校へ。

すぐに先生に見つかって「パーマや染めた髪は、その部分を切らなきゃいけない校則を知ってるか!」と言われました。
その様子を見ていた同級生に「ヤスコ、坊主しかないんじゃない?」と笑われたので、「よ~し、切ってやる!」と帰りに床屋に行って、本当に全部切っちゃった。家に帰ったら、母が私の坊主頭を見てびっくり。

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画像引用:エスモードジャポン

高校を卒業すると、念願叶いファッションの専門、”エスモードジャポン”へ入学する。中学、高校と浮いた存在として生きてきた泰子少女にとってファッション専門校へ進学することは、同じような考え方を持つ友達、つまり自分の居場所を手に入れるための手段であったように思える。
エスモードに入学してからの古田は水を得た魚のように、毎日が輝きだす。フランス校のカリキュラムに沿った、ウィットに飛んだ教育は古田にとって好都合だったのだ。

順風満帆に学生生活を謳歌していたある時、追い風とも呼べる出来事が起こる。マーク・ヴィガン(Mark Wigan)というイギリスのアーティストが主催するコンテストが開催されることになり、クリエイター志望の若者による作品を募集していたのだ。
知り合いからの後押しもあり、友人と共に5~6体のコレクションを制作。その時に作った服たちが、”TOGA”という名を背負うファーストコレクションとなったのだ。

"出展の必要にかられて、2人でブランド名を考えることにしました。寝っ転がりながら応用服飾辞典を眺めて、「どれにしようか?」「短い単語がいいな~」「ブランド名を略されたくないよね、ジザメリとかみたく」なんて具合に。そこで目に飛び込んできた言葉が『トーガ :聖なる衣』。服の原型という意味もあるということで、運命のように感じて即決でした。「トーガでいこう!」。"

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しかし、古田が学生生活3年目の年にパリ校への留学が決まり、TOGAは一度限りの幻のブランドとなってしまったのだ。


04.転機


画像引用:https://fashionpost.jp

エスモードのパリ校へ留学した古田泰子。パリの授業は全てフランス語。デザインや創造力を鍛えるのは勿論のこと。その他にシミュレーションの授業に刺激を受ける。

それは「例えばアナタがメゾンのデザイナーを引き継ぐことになったら、どのように自分のアイデンティティを打ち出すか?」というモノだった。
常に「自分らしさとは何か?」「自分が何をしたいのか?」を問われる環境だったのだ。

また、当時のパリは、高田賢三、山本耀司、川久保玲、三宅一生と名だたる日本人デザイナーが注目を浴びており、日本人であるから贔屓目で見られることや差別を受けることもあり、自身のアイデンティティを強く感じさせられる2年半を過ごす。
ここでの経験がTOGAのアイデンティティを形成するピースとなったのだ。

エスモードを卒業した古田泰子は、このままパリで生活を続けるため、アルバイトで生計を立てる。学生時代からファッションに関わる仕事に携わるため、ファッションショーのフィッターやデザイナーのアシスタントなどアルバイトで積極的に経験を積んできたのだ。
そんなある時、アシスタントをしていたデザイナーから、「コム デ ギャルソン(COMME des GARÇONS)」のショーへ連れて行ってもらう。ここで古田は、雷に打たれたように川久保玲の才能を目の当たりにするのだ。そしてすぐに、川久保の下で働くため日本へ帰国を決意したという。

しかし、日本に帰国した古田に待ち受けていたのは”挫折”だった。
親からお金の援助が絶たれて、転がり混んだ友人宅は3食昼寝付きの悠々自適な暮らし。家賃もご飯代もいらないと甘やかされた人の末路は、ダメ人間だった。意気込んでパリから日本へ帰国したはずが半年間ニートとして過ごしてしまう。

流石に焦った彼女は、学生時代にお世話になったスタイリストのツテで一点物のステージやCM衣装のデザインするようになる。一度受けた仕事が評価され、紅白歌合戦のEvery Little Thingの衣装や、「日清焼きそばU.F.O.」のSPEEDの衣装など、立て続けに仕事をもらえるようになるが、服をなんのために作るのか?その葛藤と戦う日々は続いた。

それに向き合うため、パリから帰ってきて本当にやりたかったこと。そう「コム デ ギャルソン(COMME des GARÇONS)」が忘れられず、アルバイト試験から挑戦するのだ。無事にパタンナーアシスタントの職を得るが、そこで待っていたのは壮絶な試練。

問われるのはパターンを読む力と縫製能力。それまでやってきた事とは全く違うことが要求され、朝から晩まで休みなく正確な仕事をし続けることは、古田にとって厳しい戦いだった。


”朝出勤すれば、スケジュールがびっちり決められた紙が机の前に貼ってあり、最初の頃はお昼ごはんも食べられないほど。私語は無く無音。
1〜2ミリの縫いズレも見破られるので、ごまかしが効かないストイックな世界に一気に飛び込みました。黙々とトワルを縫って、パタンナーさんに見せて、修正したら次のパターンに取り掛かって、という繰り返し。
コレクション前の時期になると、それが夜中まで続きます。一息つけるのは、トイレに行く時くらい。

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そんな生活を続けていく中で、アシスタントではくゼロから作り手に回りたいという欲が生まれる。そこで第二新卒として正社員試験に挑戦するが、最終試験まで昇り詰めるも、惜しくも夢敗れてしまう。

この挫折はTOGA第2章の始まりとなる。
川久保と共に働けないのならと、デザイナーとして一人でやっていくことを決意。学生時代に産声をあげたTOGAはここで再び息吹きをもたらすのだ。


05.出会いと成長


画像引用:https://www.fashionsnap.com

TOGAはスタイリストの安野ともこや、フォトグラファーの伊島薫の協力のもと、雑誌『zyappu』の中で6Pの特集という形で、華やかにデビューを飾る。
それからは、ブランドを売り込むために、バイヤーに自ら電話しサンプルを持ち込むなど、一人駆けずり回ったという。しかしアルバイトで貯めた資金を使い、最大限の努力をして展示会を開催するも、来場したバイヤーはたったの3人。それでも古田は、諦めず試行錯誤をしながらTOGAというブランドを成長させてきた。決して、トントン拍子に成功していなかったことが分かる彼女の言葉がある。

”TOGA初めての展示会。自分でパターンを引いて、サンプルを縫い、お店も自分で電話をして、展示会場も決めて、予算のない中すべての交渉を自分でやった。そして展示会に来たバイヤーは3名。
3日間本当に暇で、なかなか簡単に人って来ないもんだなというところから、じゃあどうやって人に伝えていくんだろうということを考え始めた、その1回目が大きかったかな。
展示会を続けたその後事務所を借りる事になり。今ほどじゃないけど自分にとってはすごく大きな場所でした。「ここだったらサロンショーができるかも」と思い、その時にあった50万だけでショーをやろうとしたんです。
そこで出会った人たちが協力してくれて。それは、今回のショーに協力してくれたプロダクションやプレスの人たちとか。最初は、誰がモデルへのゴーサインをだすのか、どうやってモデルをキャスティングするのかもわからなかったんです。そのショーのあと、また次のショー、また……と、どんどん会場も大きくなって…。”

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1999年展示会として開始したTOGAは、2001年会社設立と同時期にショーを開催。2006年には自身の学びの地でもあるパリコレクションに進出。2015年以降は舞台をロンドンに移しコレクションを発表し続けている。

06.マイノリティへの挑戦

画像引用:https://www.fashionsnap.com

古田がデザインする洋服は、マイノリティへの挑戦の歴史である。それは三姉妹の末っ子として生まれた幼少期、メインストリームを好んだ姉たちへの反骨精神から生まれたものなのかも知れない。周りの真似をするのではなく、常に自分の眼を信じて自分にしっくりくるものをがむしゃらに探してきた。その挑戦が、時に孤独な時間を過ごさせ、時に自分を見失いながらにTOGAという一つの帝国に行き着いたのだ。

オーバーグランドを当たり前とするのではなく、アンダーグランドから様々な価値観を模索する。その一つがジェンダーの壁を崩す価値観であったり、宗教的な概念からファッションを構築する作業であったりするのだ。TOGAが打ち出すメッセージにおいて、常に正解は存在しない。ラグジュアリーと古着が混在し、モードにカルチャーがMIXされる。

それは全てにおいて正解を見つけること自体をその人に委ねているのかもしれない。古田が模索しながら生きてきたように、あらゆる視点から自分とは?を見つけ出す作業。それがTOGAの服の哲学であり、オーディエンスを虜にするところなのだ。

07.TOGAとは?

画像引用:https://i-d.vice.com


ニュースタンダードへの挑戦

古田は自身で立ち上げた会社をTOGA archivesと名づけ、常にアーカイブが残せる会社を目指し運営している。会社設立の際には、”女性に対する不平等を感じることのない社会にしたい”という想いのもと立ち上げたという。女性がお酒を注ぐ、お茶を入れる、といった時代錯誤の習慣や自分の意志を隠し周りと調和するためのファッションの在り方を変えるために発信をし続けているのだ。

社会のシステムを変えていくためにファッションに何ができるのか?
このスローガンを掲げ、常に新しい価値観を提案するTOGAの服は”自分の何かを変えてくれる服”や”ちょっと大胆な自分になれる服”という好奇心やバイタリティを刺激するスイッチとして機能しているのかもしれない。


フロンティア精神

古田は幼少期から、自分が見たいものや手にしたい物など、自身の興味を掻き立てられるモノに関して貪欲に生きてきた。その”好き”を追い求める情熱は、周りに馴染めなくても、パリで異邦人になろうとも折れないものだった。そしてその情熱こそが、共鳴する人を惹きつけるのだ。

TOGAの成長には、たくさんの協力者の存在が欠かせない。やり方なんて分かららない、けれどやりたい!という熱量が伝染して、フォトグラファーや演出家など人づてにサポートしてくれる人の縁に繋がった。最初の展示会の招待状をデザインしたアーティストの五木田智央(tomoo gokita)がその一人だ。今でもその縁を大切にしながらTOGAは存在している。

一方で、自身を枠にはめない試みとして「OUTDOOR PRODUCTS」「SPEEDO」などのアウトドア・スポーツブランドから、「PORTER」、「H&M」などのメジャーブランドまで幅広くコラボレーションをしている。それは、ハイエンドとローエンド、保守と前衛、量産と一点物、対局にあるものや異なる価値観のものを結びつけて新しい価値観として提案するためのチャレンジでもあるのだ。

今までの出会いの縁や古の考え方を大切にしながら、新しい考え方を模索する。聖なる衣はその時代によって色や形が変わりアーカイブに残っていく。

それがTOGAなのだ。


撮影:PONKOTWINS

あとがき

西洋占星術では2020年12月22日から「土の時代」から「風の時代」に移行し、時代を映し出すムードが変わったと言われている。確かに時代のムードはここ数年で大きく変化をしている。今まで当たり前とされてきた働き方や学び方、家族の在り方など、挙げればキリがないが新しいシステムや考え方が導入され古い価値観にしがみ付いていると置いてけぼりになってしまう世の中が到来している。「成功するためには努力や苦労に耐えろ。」や「車とマイホームと家族が幸せの象徴だ。」という土の時代から、自分にとっての成功のあり方と幸せ基準を追う時代に変化しているのだ。まさに風の時代は「偏愛こそが正義」なのだ。心が動くものに忠実に、人の目を気にせず、納得するまでやってみる。心こそがこの時代を生きやすくするキーなのだ。

古田氏の生き方は、風の時代を生きるあなたにとって大事なヒントを与えてくれている。幼少期から自分にとって心地の良いものを探しながら、時にわがままに、時に孤独に生きてきた。自分にとって心地の良いものは少数派かもしれない。それでも自分の”好き”に忠実に。

あなたの未来は環境にも他人にも左右されるものではない。
あなた自身で描けるものだから。
自分に正直な一歩を勇気を出して踏み出そう、それはきっとあなたのサクセスストーリーの大事な一歩につながっているのだから…

■服飾偉人伝


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(TOGA ISSUE トーガ、20年目のドキュメンタリー )

・Rei Kawakubo/Comme des Garçons: Art of the In-Between (Fashion Studies)

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