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「みじめ」な社会と「痛み」の言葉(荒井裕樹)

連載:黙らなかった人たち――理不尽な現状を変えることば 第4回
普通の人がこぼした愚痴、泣き言、怒り。生きづらさにあらがうための言葉を探る、文学研究者による異色エッセイ。本稿は、2018年5月1日にWEB astaで公開された記事を改題し、転載したものになります。

保活と分断

「保活」が、しんどかった......。
「保活」とは「子どもを保育園に入れるための活動」のこと。いまでもよく話題になっているから、この言葉を知っている人も多いはず。

 子どもが生まれた頃、ぼくら夫婦は全国有数の「保活激戦区」にすんでいたから、文字通り「心が折れそう」だった。
「保活の大変さ」を説明するには、たぶん『カラマーゾフの兄弟』くらいのページ数が要る。でも「保活の本当の大変さ」は、「それくらい説明しても、わかってもらえない人にはわかってもらえない」ところにあったりする。
 それでも書くのがぼくの仕事だから、涙を呑んで一つだけ書いておこう。

 保活はいろいろしんどかった。「分断されること」も、その一つだ。
 認可保育園への入園はポイント制になっている。「保育を必要とする度合い」が点数化されて、高い人から入れるシステムになっているのだ。
 だから保活中は、このポイントで頭が一杯になる。見学や説明会で他の親子と知り合っても、「この人たちは何ポイントだろう?」という嫌な雑念が頭をよぎる。
 本当なら「同じ歳の子がいる親」という点で自然につながれるはずなのに、漠然と「競わされている感じ」が付きまとってしまう。

 そんな保活の末、晴れて保育園に入れる人と、残念ながら入れない人とが振り分けられる。うちも落選を経験した1年後、ようやく認可保育園に入ることができた。
 決定通知を受け取った時、ぼくは子どもを預けられる安堵感と、保活を終えられたという解放感がこみ上げて、超ハイテンションでガッツポーズをした。
 で、その夜、ひどく落ち込んだ。
 親をこんなに疲弊させる保育行政って何なんだ! 本来なら、ぼくはこうした憤りを示さなきゃいけなかった。それを頭でわかっていながら、「喉元過ぎれば」的な気持ちが湧いた自分が情けなかった。
 こうした気持ちが「困っている親たち」をますます分断してしまうのに。

ダイバーシティって、なんだ?

 言うまでもないことだけど、子育ての困難さにはジェンダー差がある。いまは共働きで育児を分担するカップルも多いけど、それでもやっぱり違いがある。
 例えば、ぼくは時々「仕事と育児の両立は大変」という話をする。実際そう感じているから話すのだけど、こうして「顔と名前を明かして話せる立場」にはある。
 これと同じことを、「母親」という立場の人がしたらどうなるだろう。きっと、ぼくよりも冷たい風当たりを感じることになると思う。
 男性が「仕事と育児の両立は大変」という話をしても、「仕事やめれば?」という言葉が返ってくることはない。返ってくるのは「奥さん何してるの?」というパターンだ。
 でも、女性がこうした話をすると「仕事やめれば?」「そんなに働く必要あるの?」「仕事仕事って、子どもがかわいそう」といった言葉が返ってくる。
 こうした言葉、言う側は何気なく放ったとしても、実はけっこう攻撃力が高い。

 人が働くのには、それぞれ事情がある。「働きたい人」もいれば、「働かざるを得ない人」もいるし、「そのどちらでもある人」もいる。もちろん、子どもに関しても「産む」「産まない」「産めない」「いまは産めない」などなど、それぞれに事情がある。
 いろんな事情が絡み合ってるから、「仕事と育児のどっちが大事?」なんて、きっぱり決められない。多くの人が、それなりに「割り切れない事情」を抱えながら、今日という日をやりくりしてる。

 ダイバーシティ社会って「それぞれの事情を安易に侵されない社会」のことだと思う。そんな未来を目指しましょうと言ってるくせに、一方で女性には「どっちとるの?(母親としての自覚があるなら育児だろうけど)」なんてプレッシャーがかけられる。
「女性の社会参加は進んだ」とか言われるけど、仕事と育児の間で「母親らしさ」みたいなものを試されたり、二者択一で引き裂かれるような気持ちにさせられる場面は、すごく多い。

あなたが惨めであっていいはずがない

 保活中、とても悩んでいる女性に会った。
 その人は産休を取るタイミングにも気を遣った。育休の延長なんて職場に厄介がられるのは目に見えている。自分が働かないでもやっていける家計の余裕はない。
 家から遠い認可外は現実的じゃない。ベビーシッターという選択肢もあるけど、費用は自分の月給くらい。役所に行っても、担当者は困った顔をするばかり。
 新年度は目の前。どうする...どうしたらいい...。

 ぼくは、その人のこぼした言葉が忘れられない。
「私が子ども産んだのって迷惑だったんですかね。そんなに悪いことしたんですかね。」
 この人が、どうしてこんな引け目を負わなきゃいけないのか。何かおかしいけど、そのおかしさをうまく表現できなくて、もどかしい。
 今回紹介したい「名言」は、こんな気持ちに寄り添ってくれる一言だ。

いくらこの世が惨めであっても、だからといってこのあたしが惨めであっていいハズないと思うの。

 言葉の主は田中美津さん。ぼくが尊敬する運動家の一人だ。
 1960~70年代、世界的にwomen's liberation movement と呼ばれる社会運動が盛り上がった。「性差別撤廃や女性の抑圧からの解放を求める女性運動」(『岩波女性学事典』)のことで、日本では「ウーマン・リブ」(以下リブ)と呼ばれる。
 田中さんは、日本のリブで大きな存在感を放った人。この人がいたから、日本のリブは無味乾燥な社会運動にならず、魅力的な運動になったと言われている。
 田中さんの著書『いのちの女たちへ-とり乱しウーマン・リブ論』(1972年)は、いまも古びない名著だ。「豊穣」という形容が相応しい本で、何を書いても「書き落とし」がでるけど、それを承知で説明しよう。

「女性の痛み」に言葉を与えた人

 リブが産声を上げた70年代は、男性の価値観が、そのまま社会の秩序だったような時代だ。『いのちの女たちへ』には、「社会=男」の中で、女性たちが切り離されていくことへの痛みが綴られている。

 女性の幸せは、良い男性に選ばれること。晴れて男性から認められた女性は光り輝き、認められなかった女性は陰へと追いやられる。前者は後者を憐れみ、後者は前者を妬んで、女性たちの間に深い亀裂が入る。
 でも、男性から価値を与えられなければ、女性が輝けないなんておかしい。男性に認められて価値付けられた女性も、それは本当の意味で自分の人生を生きていると言えるのか。
 男性から認められずに日陰へと追いやられることも、男性から認められることでしか社会に居場所を与えられないことも、女性の苦しみという点では同じじゃないか。
 男性の価値観で切り刻まれ、分断された苦しい女性たちと出会いたい。「女性はかくあるべし」という価値観を壊したいし、そんな価値観から自分自身も解き放ちたい。
 いま痛い思いをしている女性に向けて、「この指止まれ!」と叫んだのが田中さんだった。

 当時は「女性の価値は男性から与えられる」のが当たり前とされた。それが「痛い」というのなら、「痛いと感じる方がおかしい」とされた。リブという運動自体、「モテない女のヒステリー」なんて揶揄された。
 田中さんは、そんな時代に「ここに女性の痛みがあるのだ!」と宣言した。『いのちの女たちへ』には、「多くの人が感じているけど、まだ誰も言い表わせていない痛み」が切実な文体で綴られている。

誰かの「痛み」に鈍感な社会ほど惨めなものはない

 今回紹介した「名言」は、田中美津という一個人の経験から生まれたもの。文中の「このわたし」も、もちろん田中さんのことだ。
 でも、我が身の痛みを突き詰めたところから湧き出たフレーズは、時代を超えて、場所を越えて、誰かの痛みに寄り添うことができる。
 いま切実に痛い思いを噛みしめている人であれば、「このわたし」に自分を当てはめられる。田中さんの言葉って「いま痛い人」へと沁みていく不思議な浸透力がある。

 もし、この社会で女性が惨めさを噛みしめているとしたら、それは社会そのものが惨めなのだ。そんな惨めさに苦しんだ人は、自分を惨めにさせる社会とは何かを問い返していい。
 痛い思いをしている人を、切り分け、追い込み、黙らせる社会は、誰にとっても「生きにくい」に決まってる。そんな社会が「生きやすい」人がいたとしたら、そんな「生きやすさ」を感じられることの方が惨めじゃないか。

もうこれ以上「わたし」を失いたくない人へ

 最近、ぼくはリブの資料を読んだり、リブに関わった人の話を聞いたりしている。#MeTooの波が広がっていく様子なんかを見ると、「いまこそリブを知りたい!」と猛烈に思う。
 リブって、喩えるなら、「すり減った自尊心を抱きしめて、もうこれ以上『わたし』を失いたくないと叫ぶこと」かもしれない。自分の叫びが誰かの怒りになったり、誰かの叫びが自分の怒りになったら、それはもう「リブ的なもの」が芽生えているんじゃないか。
「叫び」って不思議だ。実際に声を出すのは一人ひとり。でも、人は独りじゃ叫べない。一人がやるけど、独りじゃできない。そうした「叫び」が、世の中を変えていくのだろう。

 子どもを産んだことに引け目を覚えたあの人にも、この「名言」が届いたらいいなと思う。どんなに考えてみたって、「子どもを産んだあの人に引け目を負わせる社会」がろくでもないのであって、「子どもを産んだあの人」がろくでもないわけないじゃないか。

 ところで、今回のような話をすると、「なんでもかんでも『世の中が悪い』って責任転嫁する人、困りますよね」みたいな反応が返ってくることがある。
 こういう反応をする人に、ぼくは躍起になって反論するつもりはない。「こうした反応も出てくるだろうな」くらいに思っている。
 大切なのは、こういうことだ。
 田中美津さんの言葉と、「なんでもかんでも責任転嫁」という言葉と、二つを並べてみたとき、自分が生きていくためには、どちらの言葉が必要かを考えることだ。
 もうちょっと踏み込んで言おう。
 もしも自分が、苦しい思いを強いられたとき、「自分で自分を殺さないための言葉」はどちらだろう。


参考:『いのちの女たちへ-とり乱しウーマン・リブ論』は、新装版が「株式会社パンドラ」から発行されています(販売は現代書館より)。今回紹介した「名言」は、以下の資料集からの引用です。『リブニュース この道ひとすじ』№2、1973年7月10日(『リブ新宿センター資料集成』インパクト出版会刊行)。

荒井裕樹(あらい・ゆうき)
1980年東京都生まれ。2009年東京大学大学院人文社会系研究科終了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、東京大学大学院人文社会系研究科付属次世代人文学開発センター特任研究員を経て、現在、二松學舍大学文学部専任講師。専門は障害者文化論・日本近現代文学。著書に『差別されてる自覚はあるか――横田弘と青い芝の会「行動綱領」』(現代書館)、『生きていく絵――アートが人を〈癒す〉とき』(亜紀書房)、『隔離の文学――ハンセン病療養所の自己表現史』(書肆アルス)、『障害と文学――「しののめ」から「青い芝の会」へ』(現代書館)がある。

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