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「書くこと」と「演出すること」 #演劇の方法論をつくってみる(3)

少々話が脱線してしまったような気がしますが、あえてこのまま脱線し続けてみることにします。

「演劇の方法論をつくるということ (2)」の記事の最後で、物書きとして、私が脚本をつくる際に苦心していたこと、目指していたことについてを書きました。

小劇場演劇では多くの場合、脚本家と演出家を同一人物が担うことがこれまでの主流でした。最近の動向を窺うと、そうでもない例を多く見るようになりましたが、それでも一般的には脚本家と演出家が同一人物であることがやっぱり多いように見受けられます。そうなると、脚本家は自分が演出しやすいように脚本を書くようになります。キャスティングの目星がついていれば当て書きをするようなこともあるかもしれません。僕は大学生のときに、とてもお世話になった先輩が次のように仰言っていたのをよく憶えています。

脚本家であり演出家であるということを、50%と50%で実現することは限りなく難しい。60%と40%で配分することでさえ難しい。だいたいの場合、どちらか一方の自分から、もう一方の自分を眺めることになる。そして、そのことについて真剣に考えをめぐらせることで、自分がどんな演劇をつくりたいか、わかるようになるかもしれない。

私は、脚本家と演出家を兼ねる人(そうした人々のことをこの文章中では便宜上「演劇作家」と呼ぶことにします)と出逢って話をするたびに、

「この人は、脚本家と演出家の、どちらの側から演劇を捉えているだろう」

と観察するようになりました。そして私の観察結果によると、多くの場合が「演出家であること」に重心を置いて、演劇作家をしているようでした。

脚本を書きたいから演劇作家をしている人よりも、演出をやりたいから演劇作家をしている人のほうが多い、と私の皮膚感覚では感じることができた、ということです。


私の場合は、脚本を書きたいから演劇をしているタイプの人間です。

脚本に形式を限定することなく、私はさまざまな書き物をして、「演劇」というかたちで発表したいから演劇活動をしているのだと、自分を分析しています。

ぺぺぺの会が脚本じゃなくて「詩」であったり「小説」であったりを上演台本として扱おうとするのはそのためです。

そして、私はぺぺぺの会に集うみんなのことが好きなんです。みんなっていうのは、ぺぺぺの会の会員はもちろん、スタッフ、キャスト、そしていつも観に来てくださるお客さま。みんなのために書いている、なんて超おこがましくて嫌だけど、私は、みんなが集まる口実をつくるために書いている。

そんな言いかたが適当であるかもしれません。ぺぺペの会にはクレドがあって、そのひとつに「ひろばの会」というものがあります。

ひろばでは、人々が自由に集まり、自由に解散していきます。ひろばに集まる人たちに優劣はなく、みんなが平等に遊びます。この「ひろば」という概念をより深く考えてみることが、ハラスメントの防止や、縛られたり依存しあったりもせず、孤独を感じたりすることもない、中距離的な関係性を育んでいくのではないかと、私は考えます。


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