バカと天才は紙一重?子育てって大変だけど面白い!
朝起きて2階から1階へと続く階段を踏み外さないように細心の注意を払いながら降りる。あとから降りてきた家族に「おはよう!」と元気よく挨拶。
一瞬の沈黙を立ち込ませながら、うちの天才である小学1年生の娘が放たった「……それで?」という返事に、”人生と子育てのあり方”について深く深く考えてしまう。そんなこと、君にもあるだろう。僕にもあるのだから。
バカと天才は紙一重
「うちの子どもは天才だ!」と、親としては軽はずみに言うことはでいない。しかし、うちの小学1年生になる娘は、まさに天才なのだ。
天才は常人では想像もつかない着眼点から優れた研究や作品を生み出すが、その着眼点があまりにも常識とかけ離れているために、常識を知らない馬鹿と見分けがつかない。ということである。(引用元)
この感覚で言うならば、やはりうちの娘は天才だ。しかし、天才であることの理由について、そのすべてを文章で説明することはなかなか至難の技であり、それは針の穴に大根を差し込むくらい無謀なことでもあると言える。
もう一度念を推して言っておくと、今か僕は「実の娘のことを天才だ」という理由を書いていく訳なので、それはそれはかなり大きく大きく助走をつけ、ジャンプする寸前のポイントにジャンプ台を設置し、神々しいまでの大ジャンプを見せたところで、着地失敗の恐れは大いにあるわけ。
出川哲郎氏がドッキリをしかける側のドッキリ作戦で、逆にドッキリをしかけられたような絶望感のそれを味わう可能性がある。どうか僕のことを哀れんだ気持ちで突き放すのだけはやめてほしい。
この話の入りが、どうもがいたとしても、どうあがいたとしても、どう転んだとしても、北極の気温を大きく下回るくらいの寒々しいマイナスであることは億も承知である。
だって、自分の娘が天才だ!なんて言ってるのだから。
簡単に言えば、うちの娘は天才だが、ここでその説明を書こうとしている僕自身が痛いバカであることの確率を数字で表すなら、非常にユーモアたっぷりに蔑んだとしても、35億なのだ。
つまり、少々…
な文章であったり、説明のつかない…
な理屈や御託を並べてしまう可能性もあるので、そこは予めご了承してもらい、話を進めさせてもらうことにする。
子育ては七転び八起きの連続
僕も気がつけば、2人の小悪魔に……いやいや子宝に恵まれ、若い時には想像もつかなかった”子育て”という神のいたずらにもほどがあるだろうと泣き寝入りせざる終えない場面に幾度も立ちはだかっては、「立つんだジョー!」の如く、七転び八起きのそれに近いモチベーションで大変貴重な経験をさせてもらっている。
それはもちろん、“幸せなこと”という言葉では言い表せないほどに、自分の時間(特に母親)は荒削りのかつお節のように削られ、ひたすらに子どもに時間を費やすことが増えていく。子育て開始直後は、その葛藤との格闘でKOパンチを喰らい続け、顔がボッコボコになるくらい苦しんだ経験がある。いや、これからもあるだろう。
それでも汗を拭きながら、幸せな日々であることを噛み締めなければ人としての道理を疑われてしまうので、そう自分で自分に思わせることも度々だ。
しかしな、なにゆえ子どもの成長というのは爆速なもの。
毎日を無闇矢鱈(むやみやたら)に暴走しながらも、目の前に出くわした”急カーブ=嫌なこと”をギリギリでいとも簡単にちゃーんと曲がったり、「そこから入り込んだら人は傷ついてしまいます」という一方通行の表札を中国人の方々がレジの順番をすっ飛ばすのと同じように無視し、ノーブレーキを決め込んで人の心の奥底に猛然とダウンタウンの浜田のような鬼突っ込みを平然とやってのける。そして挙句の果てには自分の都合の悪い状況に陥ると、それらをいとも簡単に正当化させてしまうほどの強力な感情系の魔法「ティアーズ」を繰り出し、「何事も経験だから」という甘んじたにも程があるような解釈をこちら側に強制的に押し付けながら、どんどん大人になっていく。
親としてのその後始末は、ほうき一本でも、ダイソンの掃除機であったとしても、片付けるのは至難の業だ。メンタリストDaigoか、キンコンの西野亮廣くらいのメンタリティとアイデアが必要になってくることは疑いようのない事実。
世界の中心は自分
小学生ともなれば、コミュニケーション能力の急激なレベルアップに伴った”世界の中心は自分中心”感が半端なく、親を一網打尽にすることを容易にやってのける。
ただ、天才な娘と言えど、時にはこんな間違いをしてしまうことくらいはある。
笑うしかないのか、絶句するしかないのか、激怒するしかないのか、迷うところではある。しかし、とりあえずフワフワと漂う風船が目の前にあったなら、きっと親としては針を刺したくなる気持ちにもなるだろう。
心の闇が深くなる前に、どうにか対処すべき案件だとも言える。
まぁまぁそう考え込まないで!とは言いつつも、誰だって少しぐらい、
な時だってある。
それはみな同じだ。僕の天才な娘であろうと、そうである。
思い出してみてほしい、世の中の常識を動かそうとしている国会議員が「ハゲー!」とぶちまけ一世を風靡したあれにも言える。
「違うだろー!」って、いやいや……
でしょ。
つまり、子供であっても大人であっても間違いはあるのだ。
だから、うちの娘がたまに
を投げ込んでくるくらいは普通だ。至って普通。このくらいの間違いは誰だってある。
天才的なアイデアと想像力を褒め称える
そう、もう気づいているだろけど、これ。
これは、完全に天才である娘の発想から創り出されたモノであり、脳天をぶち抜けるほどの集中力の欠落が産み落とした申し子の才能と言える。
しかし、おい!よく見ろ!よく見てみろよ!
空欄を埋めるその横に、デデーン!と「クッキー」と答えが書いてあるんだぞ!英語で書かれているけど、実際には完全に答えがカタカナで書かれているんだぞ!
どうしてだ?!どうしてなんだ?!どうして見落としたんだ?!
パパに分かるように説明してくれ!!
パパには、お前が天才過ぎてわからない(泣)
いや待てよ。そうか、そういうことか。
クッキーは、クッキーである前に、”お菓子=オカシー”であると。つまり、僕が僕である前に、”人間”であるとでも言いたいのか。
しかし、4つの空白に”オカシ=お菓子”だけでは埋まらず、あえて”オカシ”のあとに”ー”と伸ばした根拠はなんだ?!少しだけ、ほんの少しだけ”クッキー”という言葉が、頭の中で引っ張られた結果”クッキー×お菓子=オカシー”だったんじゃないかな?!
いやもしや、ただ単純にクッキーって書こうと思ったのか?そうなのか?
そうだとしたら、僕の娘は天才だ!という解釈に、大きな歪みが生じてしまう可能性があるぞ。
つまり、”クッキー×お菓子=オカシー”という発想だったのか、はたまたクッキーである前に、”お菓子=オカシー”だということだったのか、ただ単純にクッキーと書きたかっただけなのか、その答えの背景によっては、だいぶ事態が急展開することになる。
天才なのか?バカなのか?非常に選択肢に困る事態になってしまう。
天才は常人では想像もつかない着眼点から優れた研究や作品を生み出すが、その着眼点があまりにも常識とかけ離れているために、常識を知らない馬鹿と見分けがつかない。ということである。(引用元)
ふむふむ。そうだ、天才とはそういうことだ。
その線引きが際どすぎて、パパは泣いてしまいそうだよ。辛いよ。
誰かがやるはずだった。自分がその誰かになりたかった。
カール・ルイス(引用元)
こういうことか?
そのまま書いてしまうと、誰かと同じ答えになってしまう。それだけは避けたかったのか?
それは、つまり個性でいいんだよな?
パパはそれを「君の個性」という非常に良心的な捉え方で認識して大丈夫なんだよな?
おい!ふざけるな!
人の話をちゃんとと聞きなさい!
「このハゲー!」
あっ…いやいや言いすぎたよ、ごめん。
それは他人と違うことをしたいと思う個性というものなんだよな?
「違うだろー!」
いやいや、違わないよな?
「このハゲー!」
だからそれは違うな。
目の前に表れた単純な答えを、天才的な解釈で導き出し、暴挙な行為だと思わせつつの天才肌な娘。
そうなのか?
えっ??やっぱりそっち?
僕は君が大好きだ。天才でもバカでもどっちだっていい。それが親の子育ての本質だと僕は思うのである。
でも、”オカシー”の発想だけは大人になっても忘れないで。
追伸
僕は、君のテストや宿題にワクワクしちゃっている。
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