5話 3月の最終日。
もうすぐ、48歳なろうとしている私。
両親が生きた44年という年齢を越えた頃、
私が経験した幼い頃の出来事を文字に残しておきたいと思いました。
ここでは私が歩いてきた道のりを自分の想いものせてお話していきたいと思います。
「はじめに。」
現在は熊本の片田舎で
地元の食材を主に使った彩り豊かなワンプレートランチや
県産のフルーツを盛ったスイーツなどを提供する
古民家カフェを一人で切り盛りしています。
2001年にオープンして昨年20周年を迎えることが出来ました。
「振り返れば」
2001年、27歳だった私は熊本市南区で倉庫物件を改装したお店をオープン。
2階建ての店舗は40席を設け、スタッフも雇い約11年営業していました。
その11年は本当に忙しくさせていただき、たくさんの出会いも実りもあり
そこからの10年先を見据えてもう少しゆっくりとした環境で仕事を続けたいという思いから、現店舗(古民家)への移転を決め、2012年の5月から再開して現在に至ります。
ありがたいことに以前からのお客様や新たな地でのお客様にも恵まれ、自分のペースを保ちつつお仕事をさせてもらっています。
27歳でお店をオープンするまでに至る私は数年前まではそんな勇気がどこにあったのかというくらいたくさんの葛藤の中で生きてきました。
幼い頃の経験が私の礎となり、自分を作り上げて来たことをここに書き記しておきたいと思います。
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第4話からの続き。。。。。
母がいなくなってからの3人の生活を必死に馴染ませようとみんなが奮闘していた頃のこと。
3月の春休みに幼馴染の小林家に久しぶりにお泊まりすることになりました。
母が亡くなってから4ヶ月ちょっと、父はお仏壇のお母さんを一人にするのは可哀想だからと子供達だけで行くことになりました。
その日、父は小林家まで私達を送り、小林のおばさんはきんぴらごぼうか何かのおかずを父に持たせてくれて「明日、みんなで遊園地に行こうね、朝、迎えにくるから」と笑顔で帰って行きました。
その夜、久しぶりに幼馴染と遊んできっと楽しかったはずなのに、実はその夜のことはなにも思い出せません。
夜が開けて朝6時ごろだったと思います。
隣の部屋の電話が鳴りました。
その音で目が覚め、おばさんの尋常じゃない返答になにか良くないことが起きたのだとすぐに分かりました。
私も姉もその様子に固まり、布団に入ったまま顔を見合わせていました。
隣の部屋からおばさんが入ってきて「二人ともすぐに出かけるから・・・準備して」そのようなことを押し殺すような声で言ったように思います。
私たちも「どうしたの?なにがあったの?」と聞いたのか聞けなかったのか・・
もうその記憶はなくて。連れていかれる道中の車の重い空気。。。
想像したくはないけど、とにかく良く無いことが起きたんだという恐怖に包まれていました。
到着したのはある病院でした。
手術室のような場所に連れていかれました。
真ん中の手術代のような台には凄然と横たわる父が。
・・・・言葉を失い、目を疑いました。
いったいどうしたの。お父さん・・・
涙がこぼれました。
小林のおばさんは横たわる父に駆け寄り、「加藤さん!なにしてるのよー!起きなさいよぉーー!」と父の体を揺さぶって泣き叫んでいました。
私達には一体なにが起きているのか分かりませんでした。
昨日、笑って帰っていった父がそこで亡くなっているのです。
おばさんはひどく泣きながら、呆然とする私達を抱き寄せ、「お父さん、明け方、事故を起こして胸を強く打ってね、ダメだったみたい・・・」と弱い声で話してくれました。
母が亡くなった11月からまだ4ヶ月ちょっと。心の整理がつかぬまま頑張っていこうとみんなが奮闘していた矢先。
3月31日、嘘みたいな展開で父は母の元へ旅立ってしまいました。
ぶつかった場所は交差点の角にある、民家のブロック塀。打ちどころが悪く、ハンドルで心臓を強く打ったため即死。
亡くなったと。
警察に収容された車のボンネットは、炎上した様子で焦げていて前は潰れて事故の酷さを物語っていました。
なぜ明け方、車を運転してどこへ行っていたのか、いくつかの質問を警察で聞かれる姉をまだ10歳になったばかりの私は廊下で待っていました。
とても酷なことでした。
母を亡くして、頼みの綱だった父が急にいなくなり事情なんてわからない姉は警察の質問に答え、部屋を出てきた時は泣いていました。
辛い・・・ももちろんあるけど、現実を受け止め切れず、悲しすぎて整理がつけられませんでした。きっと。
熊本から祖父が駆けつけてくれて、たった4ヶ月前に葬儀や法要をしたばかりなのに祖父にとって、今度は自分の息子の葬儀を行うことになるとは。
大人になって今、祖父母の気持ちを思うとどんなに辛かっただろうといたたまれません。
後に知ったことですが、父は私達を小林家に送り、家に戻ってから熊本の祖父母へ電話していたらしく、翌日、私たちを遊園地へ連れて行くために下見をしに行く、みたいな内容の話をしていたそうです。至って元気に至って変わらず普通だったと。
みんなが嫌な想像したかもしれない。
でも絶対に違う。
もしかしたらこの4ヶ月の間にやり切れないほどもう一杯一杯になっていたのかもしれないけど、幼い私達を残して身勝手に旅立つなんてことを父がするとは思えない。悲しいけど不慮の事故が起きて父の死は避けられなかったのだと思います。
それでも大人達は「お母さんが父を連れて行ってしまった」と言っていました。母がそんなことする訳ない。信じたくはないけど人には決められた寿命があるのだと思うしかありませんでした。
3月31日享年44歳 父・健(たけし) 逝去
父の事故は新聞にとても大きく報じられていて、そこには4ヶ月前、病死した母の事も書かれており2人の残された娘がどうなるのか、といった内容だったらしく大人達が私達に新聞を見せまいと隠していました。
警察には私たちを引き取りたいという夫婦の申し出があったと後程、聞かされたり、両親の立て続けの不幸に周りの方もとても混乱されたようでした。
自分たちの行く末が不安なまま時は過ぎ、私は5年生になりました。
〜〜〜綴るアルバム〜〜〜〜〜
父は浜松のスズキ自動車に勤めていました。
日中も働いてたし、夜勤もあったりして朝、帰宅して疲れて寝ているのに私たちが遊んでいて寝れないと怒られたこともありました。
スズキ自動車の本社では夏のお祭りもあったりして、当時流行っていたスライム(ドロドロのコンニャクのような物体)を買ってもらって遊んだり、綿菓子を買ってもらったり、それはとても楽しかった思い出です。
仮面ライダーがテレビでやっていると「このバイクはお父さん達が作ったんだ」と自慢気に話してくれましたが、正確にはお父さんの会社が。。。ってことだったんでしょう。当時、私も作文に「父は仮面ライダーのバイクを作っています」と自慢気に書いたことも。お恥ずかしいですが・・・
父が亡くなってからアルバムを開くと、数年前に行ったのか職場での慰安旅行の写真がありました。大勢の中で割と端で微笑んでいたり後輩の方に肩を組まれて呑んでいたり、父が家では見せない楽しそうな様子が残されていてもっとこんなこともしたかっただろうに・・・と思いました。
歌がとても上手だった父は渡哲也さんの「くちなしの花」をよく歌っていました。その慰安旅行でもきっと歌っていたんじゃないかと思います。
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