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ハリウッドの大物が国にすり寄ろうとしたときに、ジョン・フォード監督が残した逸話。

今どきジョン・フォードが話題になることなどないだろうけど、知っておいても損はない。

 ジョン・フォードは黒澤明も憧れたハリウッドの伝説的な映画監督である。西部劇を源流とするアメリカらしい娯楽活劇の基礎を築き、「荒野の決闘」「幌馬車」「わが谷は緑なりき」など代表作は数限りない。
 古き良き時代に生きた逸話伝説の多い監督でもある。

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 そんなジョン・フォードの有名な逸話。

 1950年代、マッカーシーの赤狩り旋風が吹き荒れ、ハリウッドでは何人もの優秀な制作者たちが追放された。
 名作「イブの総て」の監督で革新的な考え方を持っていたジョーゼフ・L・マンキーウィッツ(NETFLIX映画「マンク」の主人公ハーマン・J・マンキーウィッツの弟)監督協会会長は、超保守派から反発を受け根も葉もない中傷を広められ苦境に立つ。
 保守派はセシル・B・デミル(監督&大物P)を筆頭に、マッカーシーにゴマをすろうと、ディレクターズギルドの全員に国家に忠誠を誓う署名を迫る総会を開いた。マンキーウィッツをパージしようというのである。
 ヨーロッパに行っていたギルドのトップであるジョン・フォードは、その報を受けてすぐに帰国し総会に参加する。
 セシル・B・デミルらの長い議事進行を、いつもの野球帽にスニーカースタイルでジョン・フォードは通路脇の席から黙って見ている。
 誰もがジョン・フォードを意識していた。

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 ここから先は監督で稀代の映画マニアでもある故ピーター・ボグダノビッチが、ジョン・フォードにインタビューした本から抜粋する。

「私の名はジョン・フォード。西部劇を作る男だ」

 セシル・B・デミルが長々と弁舌をふるったあと、シラケた間が出来ると、フォードは手をあげてこう名乗り、デミルが監督としていかに優秀で、大衆の好みを誰よりも知っており、それを大衆に届けるすべも知っていることを褒めたたえた。
 そこから、
 フォードはホールの反対側に座っていたデミルを冷たくにらみすえ、あとを続けた。『しかし、私はあんたが嫌いだよ。C・B。そして、あんたが今夜ここで長たらしい演説をぶったことも好かん』そして『私は、ジョー・マンキーウィッツに信任の一票を入れることを提案する。それが済んだら、みんな家へ帰って、くだらないことなんか忘れて寝てしまおうじゃないか』と、そしてみんな、その通りにしたものだった。

*フォードの発言には諸説あり「私の名はジョン・フォード。西部劇をとっている」「明日も朝から撮影がある、はやく帰って寝ようじゃないか』など

 思想信条をぶつけ合うのはいくらでも構わない。
 しかし、それを盾に才能や技術まで奪おうとするのはお門違いだ。
 追放を逃れたジョーゼフ・L・マンキーウィッツは、このあと「裸足の伯爵夫人 」「野郎どもと女たち」「去年の夏 突然に」「探偵スルース」といった映画史に残る名作を残す。
 一方でハリウッドに王国を築いていたデミルは、その地位を追われる。
 どちらにしても失われるものは大きいし、ジョン・フォードはもういない。



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