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【小説】『初めましての恋』

あらすじ

中学校の入学式の後、桜の木の下にいた辻小鳥つじことりは知らない男子生徒に話しかけられる。そこに居合わせたクラスメイトの花岡恋はなおかれんは、すれ違いざまにその男子生徒の制服の第2ボタンがないことに気付き、一緒にその謎を解くことになった。美しき青春物語が静かに動き出す、初恋ミステリー。



 特別な朝だった。

 ぱっちり覚めた目で時計を見たら、針は五時半を指していた。

 寝坊と二度寝が得意技の私にとって、アラームが鳴るよりも前に目が覚めるなんてありえない。私は真面目に、目覚まし時計の故障を疑って手に取った。針はちゃんと動いてるし、電池のプラスとマイナスも合ってる。スマホでも時間を確認した。

 どうやら、私は本当に早起きしてしまったみたい。十三年目にして初めましての経験だった。

 今日はきっと雪が降る。もう四月なのに、雪が降る。

 もちろん心の底からは思っていないけれど、早朝の空はどんな表情をしているんだろうと気になった。私はベッドから降りて窓に近寄った。カーテンをゆっくり開けて朝の空をながめる。少し前に顔を出したお日様の光が空を満たしていた。

 初めて見る朝五時半の空は青くなくて、まだ白かった。

 私はしばらく空を見ていた。落書き帳に落書きをするように、これからのことを想像して空に並べてみた。

 今日からどんな日々が始まるんだろう?

 どんな友達と仲良くなるんだろう?

 部活は何部に入ろう?

 たくさん勉強するのかな?

 先生は優しい人かな?

 落書き帳にはハテナばっかり並んだ。楽しいことをいっぱい想像したけど、やっぱりそれだけじゃなくて不安や心配もある。ちょこっとだけ。

 でも、きっと大丈夫。

 どこまでも羽ばたいていける。

 理由も羽もないけれど、私は本気でそう思った。朝五時半に起きれた特別な朝だからかもしれない。


「はあ、なんかソワソワしてきたなあ」

 私は小さくため息をつく。電車を待っている間に見上げた空はもう青くって、動き始めた町の音を吸いこんでいた。

「新しく始まる」って、ドキドキする。今朝は早起きできて調子に乗って「どこまでも羽ばたいていける」なんて大それたことを思ったけど、ピカピカの制服にそでを通して、これから入学式に向かうと思うと、期待よりも不安の方が大きくなってきた。

 となりにいるお母さんの顔には余裕がある。メイクも服装もばっちり決まっていて、今はスマホをいじっている。私はお母さんにおねだりして百円をもらい、ホームの自販機で水を買った。取り出し口から、ペットボトルを取り出す。

 プラットホームに風が吹く。温かい風だった。

 手がすべって、ペットボトルを落としてしまった。ホームを水が転がっていく。だれかがペットボトルを拾ってくれた。私は視線をゆっくり上げていく。

 私と同じくらいの身長で、太ってもやせてもいない普通の男の子だった。長方形の黒いフレームのメガネをかけていた。真っ黒な学ランを着ていて、私と同じ校章のバッジを胸元につけている。彼も新入生なのかな。

「ありがと、ございます」

 私はペットボトルを受け取った。買ったばかりの水だからまだひんやりする。今の私の手にちょうどよく気持ちがいい冷たさだった。

小鳥ことり! 電車来るわよ」

 後ろからお母さんの声がする。たしかに遠くから電車の音が聞こえてきた。「まもなく一番線に」とアナウンスもされている。ふり返ろうとしたそのとき、彼に「ねえ」と呼び止められた。

「は、はい?」

 声が裏返ってしまった。彼がじっと私を見つめていた。

「一つだけ言いたいことがあるんだけど」

 何か言おうとしたけど、言葉がのどにつまってしまった。胸がドキドキして、ちょっと息が苦しかった。早く水を飲みたい。

「自販機でわざわざ水を買う思考が理解できない」

 え?

 電車が横を通り過ぎていった。強い風が吹きこんでくる。髪の毛がふわっと乱れて視界をさえぎったけど、私の視線はぶれなかった。というよりも、彼の言葉の意味が理解できなくて思考停止の状態になってしまっていた。

「今度飲み比べてみるといい。水道水と、ミネラルウォーターを」

 私は今さらになって自分がバカにされていることに気がついた。むかっとしたから反論しようとしたそのとき、だれかが彼のことを呼んだ。

「レン! 行くよ」

 彼のすぐそばに女の子が立っていた。私と同じ制服を着ていた。あの女の子も新入生かな。小学校のときの友達かな。それとも――?

 電車のとびらがいっせいに開く。

 彼は何も言わずに背中を見せて、私からはなれていった。もやもやした気持ちをかかえたまま、お母さんのとなりへ戻った。「どうかしたの?」って聞かれたけれど、私は首をふった。

 きっとあの子も新入生だから、目的地は同じ。今日から同じ学校の中で過ごしていれば、いつかまた会うかもしれない。

 そんな予感がした。

 あの男の子が乗った電車に、私も乗り合わせた。


 入学式の日だからといって、特別な日だとは思わない。

 もし仮に特別な日になるとしたら、それは未来のどこかでの話。これから過ごす日々を特別だと感じることができたなら、その始まりの日、つまり今日のことを尊く思えるのだろう。

 吹奏楽部の演奏に合わせて、新入生が入場する。曲名は忘れたが、有名なJポップだったはずだ。体育館に入り、前の人の背中を追っていく。

 吹奏楽部の人たちは入り口のあたりで演奏していた。ちらりと横を見ると、奥の方でクラリネットを吹くりんの姿があった。

 花岡凜。年子の姉である。後ろ髪をしばって、馬のしっぽのように垂らしている。小学生の頃から、ずっとあの髪型だった。これまで物理的に上から目線をされてきたが、最近この身体に成長期が訪れた。今は凜と同じくらいの身長まで伸びたから、これからは思う存分上から目線をしてやろうと企んでいる。

 パイプ椅子に腰を下ろす。少し冷たい感触がした。

 式は儀式的に進んでいく。噂で聞いていた通り、校長の話は長かったし、来賓のうちの一人はまどろんでいた。

 プログラムが進み、新入生代表の挨拶に移る。

 学ランの胸ポケットにつけている白い花のコサージュが少し曲がっていたからすぐに直した。スラックスの膝についていた埃を払い、特に意味は無いが眼鏡を掛け直した。

「新入生代表の言葉。一年A組、花岡恋はなおかれん

 司会のアナウンスに返事をして立ち上がる。

 俺は人前に立って話すことが得意なわけではないから、平静を装っているつもりでもそうはいかない。歩き出したとき右手と右足が同時に出るくらいにはちゃんと緊張していた。代わってくれる人がいたなら代わってほしかった。今さら切に思う。

 新入生代表という決して小さくない役を任されは、入学試験の結果が良かったからだろう。小学生の頃から成績は良かった。勉強が苦じゃなかったし、長時間机に向かうこともできた。目の前に問題があれば、何としてでも解きたくなってしまう性格も奏功した。

 舞台の上に上がって校長と向き合う。あとは準備してきた言葉を並べるだけだった。途中、甘噛みをしたが、最後まで務めを全うした。

 凜は体育館の後ろで弟の一部始終を見届けていただろう。絶対に後で貶される。ガッチガチだったね、そんな風に。

 入学式は無事に終わり、新入生は担任の教師と共に教室へ戻る。担任は簡単な自己紹介のあと、何枚かのプリントを配布し、連絡事項を共有し、「一年間よろしくお願いします」と言ってホームルームを終わらせた。

 周りのクラスメイトたちは連絡先を交換したり、会話に花を咲かせたりしていたが、俺は早々に教室を出た。あてもなく学校の中をめぐってみる。これから日々を重ねていく場所を少しでも知っておきたかったのかもしれない。心の指差す方へ足を動かす。

 しばらくしてから俺は下駄箱に向かった。特別気を引くようなものがなかった。諦めるように靴を履き替えて校舎を出た。他の生徒たちを追い越しながら正門へ向かう。

 どうしても少し見上げるよう歩いてしまうのは、正門のそばに桜の樹が植えられているからだ。

 風に乗った白い花びらは青空を飾りつける。舞うのに疲れたものは、黄土色のグラウンドを彩っている。咲いても散っても、美しい桜の花びらに神秘的なものを感じた。そう感じるのは俺だけではないのだろう。桜の樹の下で立ち止まっている人が何人かいた。親子で写真を撮っている光景も見られる。

 この後、用事があるわけでもない。凜は午後そのまま部活と言っていたから、後は一人で帰るだけだ。せっかくの機会だし、気の済むまで花見を楽しもう。

 俺はゆっくりと桜の樹に近寄っていく。

 前から歩いてくる一人の男子生徒とすれ違う。彼もきっと桜に魅せられていた者の一人だろう。顔は見ずとも、彼の存在に意識がいく。170センチはあるだろうか、新入生にしては身長が高いと思った。

「……え?」

 図らずも足を止めた。脳みそがたった今目にした状況の理解を急ぐ。しかし、答えを見つけるには至らなかった。

「あ、花岡君!」

 突然、名前を呼ばれた。正面から、一人の女子が駆けてくる。身長は俺と同じくらいだから約155センチ。肌が白くて、瞳が大きくて、艶のある黒髪は後ろで結っている。どこかで見たことがあるような気がするが、誰だ?

 俺がぽかんとしていると、彼女は眉毛をハの字にして訴えた。

「え、覚えてない?」

「……ああ」

「私、辻小鳥つじことり! 同じクラスメイト! ってか、朝、駅で会ったじゃん!」

 それを聞いて、駅でのことを思い出す。

「ああ、水の人か……」

「どんな覚え方よ!」

 それしか印象が無いのだから仕方あるまい。相手の顔まではっきり思い出せなかったが、当の本人が言っているのだから、きっとあのときの女子は彼女なのだろう。

「だいたいね、私は緊張したときに水を飲んで気持ちを落ち着かせるの。これから入学式かあって思ったらドキドキしちゃって、だからあのときはどうしても水が欲しかったの。それを君はさ……って聞いてる?」

 聞いていなかった。俺の今の興味の対象はあの男だからだ。それを無言で伝えるように後ろを振り返った。

 声こそ出さなかったが、驚いたことにあの男もこちらを見ていた。少し距離があるからはっきりと見えるわけではないが、彼の表情は歪んでいた。睨んでいるのか、蔑んでいるのか、恐れているのか、とにかく印象のよくないものを感じ取った。

 まもなくして男は視線を元に戻して遠ざかっていった。

「あの男の子……」

 隣にいる彼女がポツリと呟いた。小さくなっていく彼の背中をじっと見ていた。

「あの人と知り合いなのか?」

「ううん。でも、今さっき突然話しかけられたの。人違いだって気付いたみたいで、すぐに離れていったけど。あの人がどうかしたの?」

「気付かなかったのか?」

 あの男とすれ違う瞬間、俺の目はあるものを捕えた。いや、あるはずのものがない事実を目にしたんだ。

「あの男の制服、第二ボタンだけがなかった」



 下駄箱から正門にかけて、人の波ができていた。明るい声が聞こえてくる。

 友達ができてうれしくなったのかな。

 いっしょに帰るのかな。

 連絡先は交換こしたのかな。

 私も花岡君っていうクラスメイトを見つけて、桜の木の下でおしゃべりしている。でも、おかしな出来事があったから、話題はそれで持ちっきり。早くすっきりしたかった。

 私は気が付かなかったけど、私に話しかけてきたあの男の子の制服は、第二ボタンだけがなかったらしい。新入生なら新品の制服を着ているはずで、入学式の日にボタンが取れてしまうとは考えられなかった。

 そのことをふまえると、私にも思い当たることがあった。

「そういえば、あの男の子、新入生が胸につけてる白い花がなかった気がする。きっともう外したんだろうなって思っていたんだけど、もしかして新入生じゃないってこと?」

「在学生でもないだろ」

 花岡君は当たり前みたいな口ぶりだった。「え、どうして?」と素直に聞く。

「制服の第二ボタン。それを聞いたときにぱっと思いつく文化といえば?」

 そう聞かれて、私はすぐに思いついた。前に少女マンガで読んだことがある。

「卒業式! 男の子が好きな女の子に、制服の第二ボタンをあげるんだよね。好きって気持ちといっしょに」

 花岡君はうなずいた。

「第二ボタンが制服から外されるのは卒業式。つまり、あの男はこの学校の卒業生ってことになる」

 でも、それが本当だとしたら、どうして卒業生の先輩が今日ここにいるんだろう。卒業したのに、なんで入学式の日に母校に来ているんだろう。それを聞いてみたけど、花岡君も答えを持っていなかった。

「そうだな……新手のナンパとか」

「ナ、ナ、ナ、ナンパ!?」

 とつぜん変なことを言い出すから、私はあたふたした。私、ねらわれていたの!?

「最後に俺がふり返ったとき、あの男もふり返ってこっちを見ていた。それも、普通ではない表情をしていた。君のことをねらって声をかけたんだとしたら、くやしさに満ちた表情を浮かべていたのかも」

 花岡君はそう言ったけど、ナンパ目的じゃないと思う。

 実は、あの男の子からは「お待たせ」と声をかけられた。びっくりしてふり向いた私の顔を見て、人ちがいだってことに気付いて去っていった。ってことは、待ち合わせ相手がいたってことだと思う。

 それを伝えると、花岡君は両手を組んで目をつぶり、うーんとうなり始めた。三十秒くらいたった後、開いた目で私のことを見た。

「あの男は君を待ち合わせ相手とまちがえて声をかけた。ってことは、待ち合わせ場所はここってこと」

 桜の木自体が反応するように、たくさんの花びらを降らした。

「それがどうかしたの?」

「だったら、そのうちまたここにもどってくるはずだろ。ここで待ち合わせているんだからな。つまり、ここを遠くから見張っておけば、おのずと分かるんだよ。あの男がだれと会うかってことがな」

 花岡君の提案で私たちは桜の木がよく見える場所を探した。正門向かって左側に桜の木がある。私たちは右側にある自転車置き場で待つことにした。人気のない静かな場所だった。

 数分後、花岡君の予想通り、一人の男の子が桜の木の下に現れた。目をこらしてよく見てみると、私に声をかけてきた人だった。時計を気にしたり、桜の木を見上げたりしていた。

「本当にもどってきたね」

「ああ、きっともう少ししたら、約束の相手が来る」

 正直、予想が外れるかもって思っていたけど、本当に花岡君の言った通りになった。ここまで来たら、待ち合わせ相手が来ないことの方が信じられなくなってきた。

「花岡君って頭良いんだね。少ない情報から正解を出せるんだもん。そりゃあ、新入生代表にも選ばれるよ」

「別に。大したことじゃないよ。問題があれば解決したくなるし、不思議なことがあると調べてみたくなる。それが俺の性分ってやつなんだ」

「ふーん」

 花岡君のことをななめ後ろからじっと見つめる。真剣な表情で桜の木の方をじっと見つめていた。

 不思議だった。何もかも。

 入学式の日に、私は何をしているんだろう。校舎のかげにある自転車置き場で、どこのだれかも分からない先輩の待ち合わせ相手を待っている。よくよく考えてみると、本当に何をしてるんだろう。

 これが中学生になるってことなのかな。たぶん、ちがう。

 普通じゃないと思う。

 でも、別にいやなわけじゃなかった。花岡君は私をドキドキさせてくれる。頭がよくて、いろんなことに気が付いて、面白い予想を立ててくれる。そんな今が楽しかったから、私は最後まで付き合うつもりだった。

 花岡君はメガネを外して、ハンカチでレンズをふき始めた。私が代わりに見張っておこうと思って視線を遠くに向けたけど、目のピントがずれて桜の木がぼやけていく。

 そういえば――今さらだけど気になることを思い出した。

「ねえ、花岡君」

「ん? 何?」

 視線は変わらず桜の木の方へ向いたままだ。

「そういえばさ、駅で花岡君と一緒にいた女の子ってだれ?」

「ああ、それは……」

 それは……?

 くちびるを結ぶ。息を飲みこむ。花岡君の口が動くのを待つ。

 どうしてこういうとき、時間はゆっくり流れるのだろう。

 やっぱり花岡君は、私をドキドキさせてくれる。

 でも、スローモーションになったわけじゃなかった。花岡君は一時停止したみたいに固まっていただけだった。

「……は、花岡君?」

 様子がおかしくて心配になったけど、花岡君は返事をする代わりに口元をゆるませた。

「二つ、大事なことを忘れていた」

「え、何なに?」

「まず、一つ目。入学式の日に待ち合わせをするくらいだから、待ち合わせは新入生だろうと思っていた。でも、すでに卒業した生徒が新しく入ってくる生徒と関わることなんて普通考えられない。ってことは、待ち合わせ相手は在学生。二年生か三年生ってことになる」

「先輩と後輩ってこと? でも、それじゃあ……」

 花岡君は右手の人差し指を立てた。

「そう。入学式は新入生のためのもの。普通だったら在学生は参加しない。でも、例外があった。考えればいくつかあるだろうけど、どんな入学式にも必ず参加する在学生の集団がいる――吹奏楽部だ」

 私は声に出しておどろいた。胸の中を何かがすとんと落ちていった。

「そっか! 入場曲と退場曲を演奏していたのは吹奏楽部だもんね」

 花岡君が中指も立てて、「二つ目」と言った。

「あの男は、約束の相手と君を見まちがえたんだよな。だとしたら、その相手と君は見まちがうほど似ているはず」

 確かに、全然特徴がかけはなれていたらまちがえない。極端な話になるけど、もし待ち合わせ相手が男の子だったら私とまちがえるわけないもの。

「君は後ろから声をかけられたと言っていた。つまり、後ろ姿が見まちがうほど似ていることになる」

 これまでのことを整理してみる。

 私に話しかけてきたのはこの中学校の卒業生で、桜の木の下でだれかと待ち合わせをしていた。その相手はこの中学校の二年生か三年生で吹奏楽部の女の子。そして、私と見まちがえるほど後ろ姿が似ている。私は今日ポニーテールで、身長が155センチくらい。

「そんな生徒はめずらしくない。探せばいくらでもいるだろう。でも、俺の知っている中で一人だけ思い当たる人物がいる」

 花岡君はすっと息を吸った。

「花岡凜。俺の姉だ」

 私はおどろきすぎて声が出せなかった。目をぱちぱちさせる。理解が追いついていない私に構わず、花岡君は真っ直ぐ前を見つめたまま話を続ける。

「そう考えると、あの男が最後にふり向いた理由にも納得がいく。あのとき視線の先にいたのは君じゃなかった。俺だ」

「え、どうして?」

「あの男が立ち去ってから、君はなんて言った?」

 私はあごに人差し指をそえて、あのときのことを思い出す。

 知らない男の子に声をかけられて、ふり返って、人ちがいだって分かって、その人は横を通り過ぎていって、気になって目で追いかけたら、花岡君がいて……。

「……花岡君。花岡君のことを呼んだ! そっか! だから、あの先輩はふり返ったんだ。待ち合わせ相手の苗字が呼ばれたから」

「そう考えると納得できる。きっと凜から弟がいるって話は聞かされていただろうし、もしかしたら、写真を見せて俺の顔を知っていたかもしれない。俺の存在を知って、あの男はひどくおどろいた。そして、反射的に確かめようとした。だから、あんな形相でこっちを、俺を見ていたんだろうな」

 しばらくして、桜の木の下に待つ男の元へ近寄る女の子がいた。今朝、花岡君と一緒に電車に乗っていた人だった。花岡君の予想はまた当たったみたいだった。



 凜が帰宅したのは、夕方五時を過ぎてからだった。「ただいま」の声を聞いて、俺は玄関に向かった。

「新入生代表のとき、ガッチガチだったね」

 靴を脱ぎながら、凜は開口一番にそう言った。予想した通りだった。思わずふっと笑ってしまい、凜に変な目で見られた。

「話があるんだけど、部屋に行ってもいいか?」

「後にしてくれる? 疲れてるから少し休ませてよ」

 自分の部屋に向かう凜の背中に疑問を投げる。

「誰と会ってたんだ? 桜の樹の下で」

 凜の動きが止まった。この目で見たから事実は確認済みである。俺が知りたいのは、あの男が何者なのか、どうして会っていたのか、という問いの答えだ。

 その後、俺は凜の部屋にいた。普段お互いの部屋に入ることはないが、内容が内容だけに一対一でちゃんと話せる環境が欲しかった。

 凜の部屋には過不足が無い。必要なものが必要な分だけあって、無駄を思わせるものは無駄に置かない。白い壁に囲まれた床には白いカーペット。家具も白を基調としている。部屋の色にも無駄がなかった。

 真っ白なゲーミングチェアの背もたれに身体を預け、凜は長いため息をついた。

「で、なんでレンがウスイ先輩のこと知ってんの?」

 ウスイ――それがあの男の苗字か。「碓氷」とでも書くのだろう。

 俺は咳払いをして、今日あったことを話した。辻小鳥というクラスメイトのこと。彼女に話しかけた例の男のこと。そして、得た情報から考えられる自分の推理を簡潔に説明した。

「相変わらず、レンは変なところで鋭いよねえ」

 それまで黙っていた凜は髪をしばっていたゴムを取った。放たれた髪の毛が、凜の肩に枝垂れる。

「卒業式の日にね」

 凜は遠くを見るような目をして語り始めた。

「あの桜の樹の下で、先輩から告白されたの。初めて会ったときからずっと好きでしたって」

 二人は同じ吹奏楽部に所属していた。凜が入部したとき、碓氷先輩は三年生。学年差はあるけれど、同じクラリネット奏者だった縁もあり仲良くなったそうだ。幼少期から小学生までピアノを習っていたこともあり音楽が得意の凜だったが、クラリネットに関しては全くの初心者。碓氷先輩からたくさんのことを教わったらしい。その過程で、彼は凜に特別な感情を持ったというわけだ。

 初めての恋だったから卒業する前にちゃんと気持ちを伝えようと思ったこと、第二ボタンだけでもいいから受け取ってほしいことを彼から伝えられたという。

「でも、私、すっごく迷ったの。すぐに答えを出すべきじゃない。そう思って、少し待ってほしいって伝えたら、先輩は受け入れてくれた。その代わり、返事を聞く日を決められた」

「それが入学式の日。今日だった」

 凜はゆっくりと頷いた。

 カーテンからこぼれる西日が凜の横顔を照らす。同時に、もう半分の横顔に影をつくる。勉強机の上の置時計が時を刻む。

「それで、なんて返事したの?」

 一瞬ためらう素振りを見せたけど、すぐに開き直ったように天井を仰いだ。

「断ったよ。お付き合いしませんって」

 これまでの雰囲気から察していたから、特に驚きはなかった。ただ、気になるのはその理由だ。「レンだから話すけど」と前置きをして、凜は薄桃色のクッションを抱きしめながら語り始める。

「先輩のことは嫌いじゃないし、どちらかといえば好きだし、お付き合いすればもっと好きになるのかもって思った」

 凜は目を細めた。とても悲しいものを感じたが、口元だけは笑っていた。口元だけは笑っていたから、とても悲しく感じたのだろうか。

「でもね、未来が見えなかったんだよね」

「未来?」

 凜の言葉が上手く飲み込めなかった。

「うん。明るい未来が見えなかった。何となく告白を受け入れて、何となく付き合って、何となく楽しく過ごすけど、きっと何となく別れるんだろうなって思っちゃったんだよね」

 何となく。

 その至極曖昧な言葉に考えさせられる日が来るとは思わなかった。凜の言いたいことは分かる。それこそ、何となく。

 でも、凜は人よりも言葉を重く感じすぎている気がした。周りの中学生たちはもっと自由に我がままに恋を楽しもうとするイメージがある。それを言うと、凜の口元から笑みが消えた。

「いつか別れるって分かってて、どうして付き合おうと思えるの?」

 凜の眼差しに気圧された。

「みんな、いつか終わるって分かってるけど、それでも始めるの?」

 何も言えなかった。

「私はまだ信じていたいよ。夢とか希望とか、永遠の愛とか」

 最後に添えた微笑みに、凜の純粋が詰まっていると思った。どんな言葉もかすんでしまう気がして、俺は黙ることしかできなかった。

「だから、私は先輩の告白を断った。ちゃんと好きな人と、ちゃんと付き合いたいから、ごめんなさいをしてきたってこと」

 パン、と手を叩く音。

「この話は終わり。もういいでしょ。私、疲れてるの」

 まだ胸の中にしこりのようなものが残っているような気がしたが、俺は自分の部屋に戻ることにした。部屋を出て、閉めかけの扉の隙間からそっと中を覗く。

 夕陽よりも悲しい顔をして、凜はカーテンを閉めた。俺も扉を閉めた。

 その夜、なかなか寝付けなかった。ベッドの中で、凜が話したことを思い返す。そして、一ヵ月前の出来事を想像してみる。

 第一でも第三でもなく第二ボタンを渡すのは、一番心臓に近いボタンだからだと聞いたことがある。自分の気持ちを受け取って欲しい、その願いを込めるには都合が良いのだろう。

 あの男も凜に自分の気持ちを渡した。しかし、受け取ってはもらえたのは第二ボタンだけ。本当に贈りたいものは受け取り拒否をされた。

 彼に残されたのは、ボタン一つ分の穴の開いた制服と心。空いた穴はきっと塞がることはないのだろう。その穴が、彼にとっては初恋なのだろう。

 俺は自分で自分を鼻で笑った。

 恋を知らない中学生なりたての奴が偉そうなことを言うもんじゃないな。

 翌朝、俺は辻小鳥と肩を並べて電車に揺られていた。昨日の別れ際、推理の答え合わせの報告をするために、明日の朝、一緒に登校しようと約束したのだ。

 線路の音が、独特なリズムを刻む。学校の最寄り駅に着くまで、ろくな会話もしなかった。電車の中が少し混んでいたこともあり、あまり込み入った話をするのは気が引けたのだ。

 改札を抜けて、駅舎を出る。

「昨日のことなんだけど……」

 そんな風に切り出して、自分の推理が正解だったこと、凜とあの男の約束のことを簡潔に話した。昨日共に頭を悩ませた仲とはいえ、あまり踏み込んだ話はしなかった。凜のプライバシーを守る意味もあるが、辻小鳥に真実を全て渡しても彼女は抱えきれないだろう。だから、どうして告白を断ったのか気になったみたいだが、凜が教えてくれなかったことにしてはぐらかした。

 覚えたての通学路の隅には、白い花びらがちらかっている。それだけで春を感じ、これから始まっていくことを意識させる。

――いつか終わるって分かってるけど、それでも始めるの?

 昨日の凜の言葉が蘇る。聞いてから脳みそにこびりついて離れない。睡眠を妨げるほど、考える甲斐のある問題だった。そしてまだ答えを出せていなかった。

 彼女と肩を並べながら他愛もない会話をしていたが、俺の意識は未解決の問題に向いていた。

 フェンス越しに校舎が見える。正門を抜けて昇降口を目指そうとしたが、俺はふと立ち止まった。そよ風に枝が揺れ、花びらが旅立っていく。数秒ごとに何枚かの白い花びらが宙を舞っていく。

 桜が人を魅了するのは二週間前後。その短い時間の中で多くの人を感動させる。でも、ただ美しいと思うわけではない。笑って明るい気持ちになるだけではない。

「桜を見ていると、切なくなる」

「どうしたの、急に?」

 彼女は半分笑いながら訊いてきた。

「桜を切なく感じるのは、きっといつかは散ってしまうと知っているからなんだろうな」

「……そうかもね」

 俺は独り言のように言葉を続ける。

「いつか終わることを意識すると、途端に全てが切なくなる。続けていくことも、始めることも。そう思わないか?」

 彼女はきっと何も答えてくれないと勝手ながらに思った。自分の頭の整理ができたからそれで十分だと半ば諦めていた。しかし、彼女は今日の天気を答えるように返事をくれた。

「今、咲いてるならいいじゃん」

「え?」

「散っちゃういつかを寂しく思うより、咲いてる今を綺麗だって思う方が、幸せじゃん? 今、綺麗なんだから、それでいいじゃん。私はそう思うけどなあ」

 そのとき、突風が吹いた気がした。彼女の背中が鮮明に、明瞭に見えたのは、自分のこの目が大きく開かれているからだった。瞳が彼女の全てを捕えて離さないからだった。

 突然動かなくなった俺に気付いて、彼女も立ち止まり振り返る。彼女の口が動いた。しかし、言葉は聞こえなかった。何かを訊かれている。しかし、俺の全神経は、世界中の音を拾うよりも、目の前の光を見つめることに使われた。

 風に乗った薄桃色の花びらが、彼女との距離の中を泳いでいく。

 何か、伝えた方がいい。

 今、自分が何を思い、何を感じたのか、伝えたい。

 でも、この胸の中に巡る感情を言語化することができなかった。

 伝えたい気はあるのに、伝える技術がない。

 どれくらい時間が経っただろう。いや、自分が思うよりは長くなかったかもしれない。どちらにせよ、早く何か話さないといけない。

「これから、よろしく」

 弱々しい声しか出せない自分を情けなく思った。弱々しい声しか出せないことも、そんな自分を情けなく思うことも、俺にとっては初めましてだった。

 どうして俺は、もっと、こう……。

 彼女は少し驚いた様子を見せたが、すぐに顔がほころんだ。

「こちらこそ、よろしくね」

 桜のようなその笑顔に、瞬きができなかった。



                                




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