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隙間だらけの器

 私たちは立体の世界に住んでいますが、立体をくまなくとらえることは難しいのではないでしょうか。

 隈なくとはすみから隅までです。こっちの隅から向こうの隅にまで移らないかぎり、隅から隅までをとらえることはできません。この「移る」が曲者であり難物なのです。

・重箱の隅を楊枝でほじくる。
・重箱の隅は杓子で払え。

 こんなことわざがありますが、重箱の隅をほじくったり、つつくのはいかに大変かで、立体(重箱は立体です)を隈なくとらえるのがどんなに困難かを言い表しているとも読めそうです。

「すみ」は「すみ」でも、立体ではなく平面上にある図形の「すみ・角・かど」であれば、立体にくらべればずっと扱いやすいでしょう。「移る」さいの手間もたいぶ省けそうです。

 立体の世界で立体として生きるのは大変です。立体の世界の住人であることに飽きたり疲れて、平面の世界で生きたいと願う人がいたとしても私は驚きません。

     *

 ところで、半分冗談として聞いていただきたいのですが、夢の世界は立体なのでしょうか、それとも平面なのでしょうか。

 鏡が平面であるという意味で、夢の世界が平面に感じられることがあります。何かが欠けているのです。欠けているのは深さと奥行きなのかもしれません。

 深さと奥行きが「ある」ように「見える」ではなく、深さと奥行きが「ある」かどうか、あるいは百歩譲って「ある」ような体感が「ある」かどうかという話です。

 夢の中でどんなに駆けても駆けていないという例のもどかしさは、現実の世界にある大切なものが「欠けている」からだという気がします。

「欠けている」から不自由なのでしょうが、その「欠けている」のが何なのかが不明なだけに不気味でもあります。

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 欠けているものが何か分からない。この感覚は鏡を前にしたときのもどかしさに似ています。

 鏡の中の自分や世界にもきわめて大切な何かが欠けている気がするのですが、それを名指すことはできそうもありません。

 夢と鏡は、銀幕スクリーンという平面に映っている映画にも似ています。映画は幻影にほかなりません。文字どおり、まぼろしであり影なのです。

 夢の中で夢を意識すると夢ではなくなってしまうので、目覚めた状態で思いだすしかないのですが、劇場の最前列の真ん中の席に縛り付けられて、たった一人で見ている映画、それが夢だという気がします。

 映画には参加できませんが、それでいて半端ではない臨場感があります。それだけに、もどかしいし情けないし悔しさも感じます。やっぱり何かが欠けているとしか思えません。

 立体と平面をくらべていると、その欠けているものがなんとなくつかめるような気がしてきます。

 鍵は「移る」と「移す」だと思います。何か大切なものが「欠けている」ことから来るらしい不自由さともどかしさは、「移れない」「移せない」と関係があるのではないでしょうか。

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 私たちは平面に依存しています。いま私が考えているのは文字と映像のことです。スマホやパソコンやテレビや映画やレコードや録音テープについても考えています。

 どれも平面上を見るというかたちで私たちが利用しているものです。よく考えると、いま挙げたものは平面というよりも板と言ったほうが正確だと思います。

 げんに私たちは板に付いているのです。この記事は拙文「人が物に付く、物が人に付く」の続編として書いています。

 板と言えば厚みのあるものを想像しますが、平面というと厚みを欠いたものが頭に浮びます。板は具体的な物であり、平面は抽象的な観念であるとも言えそうです。

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 ここまでに出てきた言葉とそれらから連想する言葉を並べてみます。

・立体・具体的な物・具象・隅・三次元・空間・「移す・移る」・板
・平面・抽象的な概念・角・二次元・面・画面・スクリーン・膜・絵・文字・「写す・写る」・「映す・映る」・板

 板が上の文字列にも下の文字列にもあるのは、板が立体と平面の両方の性質(属性)を併せもつ存在だからです。

 鍵は板の「厚み」にあります。私たちは板の厚みをたやすく(たちまち)忘れるのです。

 いずれにせよ、いかにも素人っぽい分け方になりました。

 研究者でも探求者でも何かの専門家でもない私は、いつもこんなふうに安易な思いつきと連想で話を進めています。

 ただ好きで、こういうことをやっているからです。

 ですので、あくまでも半分冗談(冗談半分でもかまいません)としてお読みください。

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 立体の代わりに平面で済ませている。具体的な物の代わりに平面上のしみである、しるしで済ませて澄ましている。

 言い換えると、「移る・移す」の代わりに「映す・写す・映る・写る」で済ませて澄ましている。

 というのが私たちのやっていることだという気がします。

 上でも述べましたが、私たちは板に厚みがあることをすぐに忘れるのです。板に厚みがあることを忘れて(忘れたふりをしている場合もあるでしょう)、澄ましているのです。

 だから、文字や映像に奥行きや深みを(さらには時の長さつまり経過さえも)見てしまうと言えます。

 逆説的な言い方になりますが、文字や映像に奥行きや深みを見るためには、板の厚みを忘れる必要があります。

 板に深さと奥行きを求める人にとって、板は厚みを欠いた平面でなければならず、その厚みを忘れる必要があるのです。板とは、こういうややこしい(よく考えると当たり前のことなのですけど)仕組みであり仕掛けだと言えます。

 平面上でしか、立体という錯覚とまぼろし(抽象のことです)――まぼろしと抽象は「映す・写す・映る・写る」と親和性があります――を効率よく効果的に見ることができないからです。この平面を抽象空間と名付けたくなります。

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 私たちは立体の世界に住んでいますが、立体を隈なくとらえることは難しいのではないでしょうか。

 この記事の冒頭で以上のように書きましたが、私たちは立体の世界に住んでいるのかどうかが疑わしく思えてきました。

 私たちは立体の世界だけでなく、平面の世界にも住んでいるとか、「いる」と言えそうです。

 スマホやパソコンだけでなく、本や雑誌や新聞やノートやメモ帳にむかっているときも、私たちは平面にいるのはないでしょうか?

 私たちの意識が平面にいるとか私たちの心が平面にいるという感じです。

・意識、心、気持ち、思考。平面。抽象。映す・写す・映る・写る。
・身体、感覚、知覚。立体。具象。移る・移す。

 いっぽうで、平面にむかって文字や図や絵や写真を見ているときの私たちを、たとえば上の文字列のように二つに分けて考えるのも乱暴な気がします。

 そもそも分けられるものでもないと思います。話を進めるために分けているだけです。

 ところで、言葉をつかうとか、文字をつかうというのは「分ける」です。そもそも分けられないものを人の都合で分けている、と言えば分かりやすいかもしれません。

「分かる」ためには「分ける」必要があるのです。とはいえ、分けたから分かるものでもありません。「分かる」はなかなかの分からず屋なのです。

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 くり返します。

 私たちは立体の世界だけでなく、平面の世界にも住んでいるとか、「いる」と言えそうです――。

 いま述べているのはいわゆる神秘体験とか超常現象ではなく、誰もが日々感じている感覚のことです。

 いまこの文章を読んでいる人も、いまこの文章を書いている私も、読んでいる、そして書いているさなかには平面上にいる気がします。意識の大半が、平面に注がれているという感じ。

 映像はさておき、平面上のしみであり、しるしでもある文字と文字列、つまり文や文章を相手にする体験は、人の外にあるさまざまな物の中でもきわだって特異な存在を相手にしているのではないかと思います。

(いま述べたことは、こうも言えます。人は自分の外にある物(たとえば文字や映像)をもちいて自分の中にこもる、と。)

 なにしろ、私たちは平面上の文字に奥行きや深みを(さらには時の長さつまり経過さえも)見てしまうのです。

(写真や絵などの映像はもちろんのこと)文字は手軽で簡便な錯覚製造装置とも言えそうです。

 したがって、私たちは板に付いているというよりも、板がもたらす錯覚とまぼろし(映す・写す・映る・写る)に快楽を覚えて嗜癖していると言うべきなのでしょう。

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 私たちは立体の世界に住んでいますが、立体を隈なくとらえることは難しいのではないでしょうか。

 というより、私たちは立体の世界に住んでいながら、ときどき平面上にもおそらく同時にいて、思いという光で「すみ(角・隅)」から「すみ(角・隅)」までを照らしているのかもしれません。

 おそらく私たちは立体と平面両方の世界の住人なのです。すくなくとも、猫はそう感じているのではないでしょうか。猫の話は、以下の拙文に出てきます。

 猫はさておき、ここで思いだした曲があります。バーブラ・ストライサンドの歌う「追憶(The Way We Were)」です。

 私は出だしのフレーズが好きです。

Memories light the corners of my mind

「思い出は心の隅々を照らしてくれる」という感じでしょうか。

 ところで、私たちの意識(思い)がつねに現実(うつつ)に遅れているとするなら、この瞬間に私たちがいだいている「思い」は一瞬前の「思い出」なのかもしれません。

 思い出(「思い出す」だけでなく「思い浮かべる」や「思い描く」もふくめていいでしょう)の世界で起きているのは、「映す・写す・映る・写る」であり、「移す・移る」ではありません。

 影(「映る」)は実体(「移る」)につねに遅れてもいます。

What's too painful to remember
We simply choose to forget

 このフレーズも好きなのですが、「つらくて思いだしたくもないことは、なかったことにする」と私は読んでいます。

 覚えていたくないことは、なかったことにする――とも取れるかもしれません。都合の悪いことはたちまち忘れてしまう、と読む人もいるでしょう。

「覚えていたくないことを忘れる」、あるいは単に「覚える」や「忘れる」というのは、すぐれて「映す・写す・映る・写る」的な身振りと言えそうです。

「映す・写す・映る・写る」さいには、かならず何かが漏れ落ちる、つまり対象を掬いきれないのです。そこが「移す・移る」と大きく異なります。

     *

 いったん上の歌詞を忘れましょう。

 平面上で見たり読んだりするもの(映像や文字のことです)をぜんぶ覚えていることはありえません。

 だいいち脳がもたないでしょうし、そもそも知覚はまばらでまだらなフィルターであるはずですから、視覚という機能で得た情報(データ)は取捨選択をして(ふるいにかけて)記憶にとどめていると考えられます。音声もそうでしょう。

 人がわざわざつくって利用している文字も映像(「映す・写す・映る・写る」ものです)も、各個人が瞬時に記憶するには大きすぎる情報をになっているようです(人は自分の手に負えないものをつくり、自分の手に余るものをつかっています)。

 私たちは隙間だらけの器――ざるとかふるいだとは言いませんが――なのかもしれません。

 とはいうものの、人類はここまでやってきたのですから、このすかすかの器はけっして侮れません。

 問題は、私たちが何をふるい落として(篩い落として・choose to forget)きたか(ふるい落としつつあるか)ではないでしょうか?

     *

 今回は、隙間だらけの器は「移す・移る」よりも「映す・写す・映る・写る」と親和性がある――ざるは水を汲んで移すのには不便だけど適度に日と風をとおすから日傘にもなる――というお話をしました。

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