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「快」と「ビジョン、夢、ウィル、やりたいこと、自分らしさ、個性、ありのまま」は異なる

おはよう、こんにちは、こんばんわ。
さて今回も、クソガキがうんちくを垂れ流していく。
今日は弊社の掲げる「快」の概念について、類似の概念と比較する形で勝手に言語化していく。
クソ面倒で、クソ冗長で、クソどうでも良く書いていくので読む人は覚悟するがいいだろう。

快とは信条であり、信念であり、私に普遍的に生じている欲望である。

・そもそも弊社の掲げる「快」について

弊社が新しく掲げた概念として「ドンズバ」と「全快放」というものがある。これはバラバラな概念ではなく、それぞれが対の関係性として存在する。
まず「ドンズバ」とは何かについて語るならば、「受け手と与え手が両者共に全力でぶつかり合った時に鳴り響く音」と言える。元は野球における概念であるが、全力で投げたピッチャーの球をキャッチャーがグローブのど真ん中で受け止めた際に「ズバアァァン」となる音だという。
私たちが行う仕事において、ピッチャーとキャッチャーの関係性のようにクライアントと全力で投げて受け止め合うことのできる爽快な仕事をしていきたい
そんな思いから、掲げている。

では、ドンズバな仕事ができるためには何が必要か。
それは自分が全力であり、相手も全力であること。
これに尽きる。

そこで掲げられたもう一つの概念が「全快放」というもの。
自分自身が一切の囚われ、遠慮なく自分の欲求を全開で生きていることをさしている。この「全快放」を両者がしている時に初めて、「ドンズバ」な仕事ができるわけである。

図にするとこのような関係性となる

しかしここで掲げているのは「全力」でもなく、「全”解”放」でもなく、「全快放」となっている。これはなぜなのか、ということを探るのが今回の話だ。前段が長くなったがここからなぜ「快」という概念を持ち出しているのかを、比較することを通して示していこう。

・快は「今この瞬間」、ビジョンは「訪れてほしい未来」

まず最初に説明するのは快とビジョンの違いだ。
こちらに関しては、前回の日記で詳しく記述している。

ここでは快を類似概念である「コンセプト」として比較している。
コンセプトとは「今この瞬間において大切にしている個人的な信条」であるのに対して、ビジョンは「いずれ訪れてほしい/させる〇〇な世界」というものだ。そのため未来軸であり、今現在の自分の欲求・信念に関しての言及をしていない。そこが大きな違いとなる。

・快は「在ること」に対して、ウィル、夢、やりたいことは「すること」

「君のウィルを実現しよう」「夢は叶うもの」「やりたいことやろう」という言説はもうすでに耳にタコができるくらいこの世界ではされている。
これらはだいぶ私としては類似の概念だと考えている。
違いといえば、「ウィル」の方が「夢」よりも語源的にも「自分の意志」が伴うものであること、「ウィル」「夢」より「やりたいこと」は「こと」というように具体的な行動にまで落とし込まれていることくらいだろう。
いずれにせよ共通するのは「自分が今この瞬間より先の世界で、自分を含む世界に対して、自分の意志と行動によって影響を及ぼし、その結果として自分の欲求を叶える事象」であることだろう。
ここで大事なのは「行動」を強い意志で実行していかなければならないことである。さらにいうならば、「ウィル」「夢」「やりたいこと」においては何かしらの障壁と向かい克服しなければならない、つまり現実を自ら引き受ける責任が生じるという部分が含まれるのも大事だ。

それに対して、快においては「今現在存在している、自分にとって”心地良い”感覚状態」を言語化したものといえる。未来軸でもなく、意志を要求するものでもなく、行動でもないし、責任もない。
そこが大きく違うことであり、言語化し意識することが「辛い」という感情を生じさせにくい理由となっているだろう。

実現にはエネルギーを費やす必要があるが、快は実現するものではなく「すでに在るもの」なので在る。

・快は「自分のみで定義できる」のに対して、自分らしさ、個性は「他者が定義に介在する」

「自分らしさ」を分解すると、「自分」と「らしさ」の2つに分かれる。
自分という言語に内包された意味は「自ずからの本分(自然と備わったもの)」というものに対して、らしさという言語に内包された意味は「ふさわしいと判断されたもの」というものになる。すなわち、自分らしさとは生来的に在るものに対して自分の周囲に存在する他者と比較して「ふさわしい」「唯一無二的である」と後天的に定義するものとなる。

この時、それはもはや生来的なものではなく人工的なものであり、社会的な産物となる。社会の規模が膨れ上がった現在において「差異」の言語化である「自分らしさ」とはしんどさを内包するものであろう。

個性とは本来的な言語でいうと、個に備わった性(さが)と書くので他者の介在はないのだが。「個性を大事に」的な世の中の発信で手垢がつきすぎて、個性=良いものという判定になっている。そして、良いという善悪判断は社会的な要素が多分に含まれてしまう。それゆえに、自分らしさと同様の他者や社会の縛りの息苦しさから抜け出すことはできない。

一方の「快」においてはすごく俗的にいうならば「自分が気持ちいいと思うこと」である。ここにおいて、気持ちい条件に他者が入ることはあれども、自分の「快」を定義する段階において他者や社会が介在することはあり得ない。なぜなら、「自分が気持ちいい」を判定できるのは自分しかいないからである。

・快は「欲望に忠実であること」のみを意識させるのに対し、ありのままは「私の存在、身体、精神、行動、全て」に対して意識させる

アナ雪くらいからもてはやされている「ありのまま」という概念。これはそのほかの概念に比べると「快」の概念と近しい部分もあるのだが、これも残念ながら異なるものだと考えている。

本来、ありのままというと、自分が「在る」「まま」であるので非常にノンストレスな概念のはずだが。「ありのまま」をしようとすると非常に息苦しくなる。なぜならば、「ありのまま」の「在る」とは自分の存在全てにおいてを指すものとなっている。存在そのもの、身体、精神、行動、その全てにおいて私は「ありのままだろうか」と考えることが「ありのまま」から遠ざけている。(まあ、その遠ざかって苦しい様も今のあなたにとっての「在るまま」ともいえるのだが)

一方の快とは前段で述べた通り「気持ちいこと」である、つまり全存在を意識する際は思考が伴うが、こと快においては感覚的な問題なのである。
その瞬間に嫌な”感じ”がせず、なんかええ”感じ”であればいいのである。つまり、意識が雑でいいことが楽な”感じ”をつくり出している。

・とはいえ息苦しさは手垢がつくことで如何様にでも生じる。あまり厳密に考えないことが肝心かもしれない。

こう見ると、快とは人生に関する概念においてかなり良さそうに見える。当然、そう思うからこそ掲げているのだがこれはまあきっと、まだ世の中的に手垢がついてないこともかなり手助けしているように思える。むやみやたらに振りかざさず、自分の中でただ「気持ちええなぁ」と思っていることが大事なのかもしれない。
そんなオチのない話で締めようと思う。

今週の質問:「これまでに一番熱中したこと」

学生時代に本を出版したのだが、それが一番熱中したことかもしれない。

当時、キャリア教育で「夢を持って幸せになろう」ということを布教していたそれまでの自分がなんて浅はかだったのだろうかということを自覚した時期であった。(当時のわいの思考について知りたい場合はこの記事を読むといいだろう)

それもあって、それまでの「夢」「自分らしさ」「ありのまま」みたいな上で言及した概念ではない形で人にとって意味ある手法であり思想を生み出せないかと悶々とし、さまざまな書籍を読み漁り、うんびゃく人にも実践をした上で、「自分の問い」を持ち社会と距離をとって自分を見ることができることが人の生きづらさを解消することに近づけるという確信を持ったのが出版に至る経緯だった。これをなんとか形にしようと起業しようとしたのだが、当然実績も何もない学生が一人でよくわからん理論を掲げて教育事業をやれば見向きもされない。その中で拾ってくれたのが一般社団法人FORAだった。ここでFORAの掲げる思想と自分の掲げる思想が多くの部分で合致したことが功を奏し、教材を出版させてもらうことに至った。理論構築の探究を自分だけでしているので1年、教材の出版までの紆余曲折で1年。合計2年はかかってできた代物だった訳である。
2年間、死に物狂いで自分の感じた違和感をとことんまで追求したこの時期は今の「快」の思想や、ブランディングのメソッドの基礎基本を作った経験と言えるだろう。

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