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食事とは

私は食への興味が薄いらしい。

休みの日は食べ忘れることがザラにある上、将来生きていくのに必要な栄養を補えるカプセルか何かが発明されたらそれでいいななんて思ってしまっている。

この考えはどこからきたのだろうか。

家族と食事とテレビ

私たち兄弟は小学校に入学するまで、食事中にテレビを見ることを禁止されていた。それは食事は食卓を囲っているみんなで話しながらするものという母の教育方針だった。

その日なにをして遊んだのか、誰と何を話したのか、幼稚園では何をしたのか、テレビがなくても毎日我が家の食卓はとても賑やかで、私は特に兄や弟が話しているのを遮っては怒られていた。

小学校に入ってすぐにそれが終わりとなったのは、小学校の同級生がテレビを見る子ばかりで話が合わなくなることを心配した親心からだった。

食事中にテレビをつけることによって会話は確実に減り、兄はテレビに夢中になるあまり食べ終わるのに相当時間がかかっていたし、私と弟はチャンネル権の争いを毎晩するようになった。

しかし悪いことだけでもなく、毎週月曜日の夜のアニメを私たち兄弟は楽しみにしていたし、テレビ中継されるスポーツ、知らない国の風景、いろんなことに興味がある年頃というのもあり、当時の自分にとってやはりテレビは面白かった。

ご飯行こうよ

高校生、大学生となるにつれて自分の時間が増えていき、友達とどこかに行って過ごすことも増えていった。いつしか”今度一緒にあそぼう”という言葉は”ご飯行こうよ”に代役されるようになった。

正直、誰かとご飯に行く時の飯の内容は私にとってどうでもいい。ベジタリアンになってからは、お店のメニューを前もって確認していたが、何を食べるかより相手とどう過ごすのか、何を話すのかの方がよっぽど楽しみで、それは今も変わらない。

因みに、ニューヨークはどのお店に入ってもベジタリアン用のメニューが複数用意してあるためレストランのコースメニューなどを頼まない限りはとても楽だ。

大人数での食事は目が回る

大学生になると大人数で食事に行くことも多くなり、また二十歳をすぎるとお酒の場というものも知った。

結論から言うと大人数での食事もお酒の場も苦手だ。

相手や自分がお互いの会話に集中できないのも、第三者がいることで本心を隠そうとするところも苦手で、同じテーブルを囲っているのにみんながみんな違う話をしているのをみると目が回ってしまう。

アルコールの影響で普段言わないようなことを話す人、”お酒の力を借りて”なんて言葉には嫌悪感すらあるし、正直情けないと思ってしまう。

それとは逆に、安い中華料理店でお互いコーラを飲んでいてシラフなのに愛とは何かについて真剣に二時間も語りだす友人が私は好きで仕方がない。要は会話において自分というものを隠さずに直球でぶつけてきてくれる人は話していて面白い。人間は鏡で、そういう人には自分も偽らずに話すことができるので自分を飾らない人というのはつくづく素敵だ。

一人暮らしと食事

多くの方の食生活がガラリと変わるタイミングというのは一人暮らしではないだろうか。自分で作るのか、何か買いに行くのか、食べに行くのか、何にせよ、待っていても食事はでてこない。

私はこのタイミングとともに食べることを無理にしなくなっていった。

食事とは食卓を囲んでいるみんなと話しながらするものと言っていた母の影響からなのか、気づけば私の中で食事とは誰かとするものになっていた。そして一人でいる時にご飯を食べることが少なくなり、急激に痩せた。

寂しがり屋とは真逆の性格であったため、他の原因を考えてわかってきたのは”食べたいもの”という欲求が自分の中には薄くしかないのだということだった。

今までそれが分からなかったのは、私の中の食事における欲求、つまり誰かと話をしながら食べるというものが実家にいたことによって満たされていて、食にだけ焦点を当てることがなかったからだと思う。

*今は無理に食べることもしないが、連絡をとるたびに家族や友達が口うるさく”ちゃんと食べて”と言ってくれるお陰できちんと食べている。

手作りケーキ

いつからか誕生日やクリスマス、”何が欲しい?”という言葉に対して”何もいらない”と言うようになった私は去年の誕生日の同じ質問に対して手作りケーキと答えた。

何も”物”はもう欲しくない、欲しいものは自分で買える。でも自分では手に入らないものがある。

それは愛情。

相手が自分のために手間暇かけて作ったもの、私は贅沢にもそれが欲しかった。それを食べたかった。

目に見えるものよりもずっとずっと価値のあるもので、物なんかよりも長く自分の中に残り続けるものだと思う。

食事は相手との繋がり

私が食事に求めるものは食べるものの内容ではなく、その食事を共にしている相手との繋がりだ。

食事中の相手との会話の中の楽しい気持ちまたは悲しい気持ち、相手が自分を想う気持ち、自分が相手を想う気持ち、それらを食事と題して食べている。

食事が美味しいのも美味しくないのも実は相手によるところがあるのだと思う。一人で食べる食事はどんなに熱々でもどこか冷たくて味気がしなくて私はよく醤油をかけすぎてしまう。逆に誰かとの食事は冷めていようが、1ドルのピザだろうと美味しい。悲しい話をしながら食べた食事の味を思い出した時、やはりどこかその味の中に悲しみが入っていたりするもの。

私は誰かとの食事を思い出した時、食べたものよりも鮮明に相手のことを思い出せる自信がある。どんな表情で何を話していたのか、誰を想いながら話していたのか、自分が話したことにどう言葉を返してくれたのか、その食事の席にお互いを思いやる愛情はあったか。

相手と繋がるとこと、または相手の愛情を食べること、自分も相手にそれをあげること、それが私にとっての食事です。


5.10.2020 Rin

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