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勝手に書評|中空萌|知的所有権の人類学

中空萌(2019)『知的所有権の人類学:現代インドの生物資源をめぐる科学と在来地』世界思想社

 この本は、読み進めるのに少し時間がかかってしまった。手元の記録を見ると、4月24日に読み始め、5月に3週間ほど間が空いて(自分の研究などで忙しかったため)、今日6月3日に読み終えた。読むのに時間がかかった理由の一つとして、本の内容に没頭するまでに少し時間を要したということがある。大抵の本は、電車に乗っている時間や待ち時間などにどんどんと読み進められるのだが、この本は、舞台(調査フィールド)がインドの地方ということもあり、また固有名詞も多く出てくることから(これは恐らく博士論文として書かれたことによる研究としての具体性と正確さの重視に起因する)、少しずつ読み進めるということができず、まとまった時間で助走をつけてから一気に読む必要があったためだ。もちろん、読み方は人それぞれなので、私にとってはそういう本だったというだけだが。

 さて、著者の中空萌さん(1983~)は、現在広島大学で講師を務める若手(と言って良いのだろうか?)の文化人類学者だ。本書は、彼女の博士論文「所有主体の生成と知識の翻訳:現代インドの生物資源に関する科学、在来知、知的所有権をめぐる民族誌」を元にした一冊であるようだ。なんとなくアカデミック寄りの本を読んでいると、(大抵は構成と内容の密度を見て)これは多分博士論文を元にしているな、と分かることがある。本書もその例に漏れず、読み応えのある密度の濃い一冊だった。一方で、この類の本は、門外漢には中々難しいという難点もある。当たり前だが、その分野で博士号を取るために書かれた論文なので、それ相応の背景知識や専門知識を前提としていることが多く、(加えて値段も高いことが多いので)素人には少し手が出しにくいということがあると思う。ただ逆にアカデミックで仕事や研究をしている人にとっては、かなり密度が濃く、特に一般書と違って既往研究のレビューが豊富であることから非常に有益な本であることも間違いない。ここでは本書について、内容の理解を促すための簡単な要約と、本書を読んで考えたことを備忘録的に書いていきたい。


本書の舞台

 本書を読み進める上で、まず理解しておきたいのは、本書のフィールドワークがウッタラーカンドというインド北部のチベット高原側に位置する地域を主対象に行われるということである。そして、その中心には、インドで古くから使われてきた「薬草に関する知識」がある。これは、単純に古代からある伝統的な薬草に関する知識だけでなく、それを近代西洋医療的な観点から分析することによって得られた知識や、そうした科学的根拠などに基づいて政府が公開する知識など様々である。従って、その主体も伝統的に薬草を扱ってきた「ヴァイディヤ」と呼ばれる人たちだけでなく、研究機関で働く植物学者や地方で実際に薬草を栽培する農民など多様である。本書では、こうした薬草に関する知識をめぐって、そこに関わる人がどのようにその知識を理解し、あるいは咀嚼しているのかを描いている。そこで用いられるキーワードが「翻訳」という言葉である。伝統や科学といった起源や権威の異なる知識に対して、人々がどのようにその間を往来するのか、またはどう折り合いをつけるのか、すなわち異なる知識間をめぐる翻訳の様子が個別具体的な事例から明らかにされる。

知識が「誰かのもの」になるとき

 本書では一貫して知識が誰かのものになるとき、あるいは知識を所有する主体が生まれるとき、というのに着目している。「とき」と書くと、ある一時点でのことと思われそうだが、実際には一時点ではなく伸び縮みするプロセスである。

 本書の見取り図としてはこうだ。インドでは伝統的に薬草の用法などに関する在来知が多く存在する。西洋の近代的な製薬会社などはこれに目をつけ、これによって新薬を開発し莫大な利益を得てきたが、その利益が在来知を担う人々に還元されることはなかった。こうした知識の勝手な利用に対して1990年代以降批判が相次ぎ、国際条約などによって元々の「知識の所有者たち」の権利が守られるような制度的枠組みが整備されていった。こうした知識の所有という枠組みに関しては、知識という実体のないものの所有者をどのように設定するのかという議論が多くなされてきた。しかし、本書では、「誰が所有者なのか」という問い自体を疑う。つまり、知識という変わりゆくものに対して、固定的で絶対的な所有者は存在するのか、あるいは設定できるのかということを疑問視するのだ。その上で、ストラザーン(1941~)というイギリスの人類学者に倣って、「知的所有権」という概念が近代的な法制度によってもたらされたときに、人々は「どのように所有主体になるのか」という問題に着目する。このあたりの議論は、私たちが当たり前だと思っている「所有」という行為あるいは状態に対して、必ずしもそれが普遍的なものではないということ、そもそも「所有する」とはどういうことなのかというところまで立ち戻って議論が展開されていくので読んでいてとてもわくわくする内容だ。

所有と責任/義務

 普段の生活の中では「所有」という言葉や概念を意識していなくとも、私たちは無意識のうちにこの所有を前提として物事を考え、生活をしている。例えば、誰かが耕している畑に勝手に入ることはないし、同僚のデスクから勝手に何かを拝借するということもない。全て誰かのものであり、私は所有者ではないからだ。そしてこの原則を知識にまで拡張したのが、知的所有権だ。ここでは二つの注目すべきポイントが挙げられると思う。一つは、その知的所有物は誰が発明したのか、という点。著作権や特許などからも分かるように、所有権では誰が最初の発明者かということが重要視される。二つ目は、所有権は売買可能であるということだ。製薬会社の例からも分かるように、知的財産の所有者にその対価さえ支払えば、その知識は好きなように利用して良いというのが国際社会でも認められている。つまり知識も市場原理に則って商品として扱われているのだ。問題なのは、商品の作り手と売り手が誰なのか、というのが従来の議論だろう。

 これに対して中空は、ロック(1632~1704)の所有の話に立ち戻りながら、新たな視点を提供する。ロックの所有権で有名なのは、自らが所有する身体の労働によって生み出された財産もまた自らの所有物となる、という論理だろう。先程の発明者は誰なのかという議論も、この原則に基づいていると言える。労働という対価によって生み出されたものは、その労働を行った者の所有物になるからだ。在来知の形成とそれを伝統的に担ってきたインドの人々の関係が挙げられる。しかし一方で、ロックは労働に対する報酬として、所有が絶対的に現れるとは考えていなかったようだ。そしてこの点が所有権の議論において見逃されがちな点であると著者は述べる。

『統治二論』第五章には、所有権は労働によって獲得されるのみならず、「保持」されなければならないことが明記されている。土地は耕し続けなければならず、獲得した資源は腐敗させてはならない。・・・・・・ロックにとっての所有権とは、過去に資源に対して付加した価値に対する権利というだけではなく、価値を生み出し続ける、未来へ向けた継続的な責任と義務でもある。(p.231-232)

 インドでは薬草に関する在来知に対して、知的所有権という近代的概念が導入されたことを契機に、様々な人たちが自分自身の行為やアイデンティティをそうした文脈の中で改めて生成し、落とし込もうとしてきた。本書の大半もその具体的な様子を描くのに費やされている。その姿から明らかになったのは、彼らは「知識の所有」を固定的なものとして捉えるのではなく、常に変化しうる知識というものに対してそれぞれの立場から向き合い、またその変化の一端を担っているということである。そこには、現地では「慈悲」などとして語られ、また時には語られずとも行われる、知識に対する責任や義務が見受けられる。つまり、知識を所有するということは、その価値を生み出し続ける責任を担うということであるようだ。こうしてインドでのフィールドワークから明らかになった所有という考え方は、しかし決してインド固有の考え方ではなく、ロックにもある種共通していることを著者は明らかにした。所有を過去に決定づけられた絶対的なものとして捉えるのではなく、同時に継続的な責任を認めながら未来へと繋げること。これは少子高齢化が続き、空き家問題や耕作放棄地問題が顕著になっている現代の日本でこそ考えるべき所有のあり方なのではないだろうか。

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