「普通」とか「わたし」とか / 村田沙耶香「コンビニ人間」

村田沙耶香さんの「コンビニ人間」がついに文庫化されたので、買ってみた。
(単行本は値段が高いのもさることながら、なにより置く場所がなくてなかなか買えない。)

この先、ネタバレあるのでお気をつけください。

裏表紙にはこんなふうにあらすじが書かれている。


「いらっしゃいませー!」お客様がたてる音に負けじと、私は叫ぶ。古倉恵子、コンビニバイト歴18年。彼氏なしの36歳。日々コンビニ食を食べ、夢の中でもレジを打ち、「店員」でいるときのみ世界の歯車になれる。ある日婚活目的の新入り男性・白羽がやってきて……。


この文章を読んだ多くの人が、この白羽という男性と恵子がくっつき、恵子は「店員」でいるときのみ世界の歯車になれる、という状態を脱するのだろう、と思うのではないだろうか。

小説を読み進めるとわかるが、恵子は相当「変わってる」。
だけど、彼女自身はなにが変なのかがわからないので、周囲の人の言動を摂取するように真似て「普通」を演じようとしている。

そんな恵子が出会うことになる白羽は、自分が「普通」を強制されることを嫌っているくせに、恵子の「異常さ」を攻撃する。
お互いに周囲への体裁のために都合がいいということで、ふたりは一緒に暮らし始めるのだが、白羽は恵子から「コンビニ店員」という役割を取り上げ、就職活動をさせる。

物語のラスト、恵子は自身が人間である以上にコンビニ店員なのだとして、コンビニ店員として生きつづける道を選ぶ。
つまり、恵子は誰か大切な人と一緒になるわけでもないし、コンビニ店員としてしかいられない状態を脱却するわけでもないのだ。

これはある意味バットエンドかもしれない。
けれど、自分で自分の生き方を選択したハッピーエンドでもあると思う。


恵子の「異常さ」は極端に感じられる。
だけど、恵子のように意識していないだけで、わたしたちもほんとうは「普通」を無意識に演じているのかもしれない。

「普通」というのはつまり、平均値のようなもので、多くの人がいるからこそ導き出せるものだ。わたしたちはひとりでは、「普通」が何なのかわからない。

きっとわたしたちも、恵子のように、周囲を観察して、無意識に真似たりしながら「普通」を演じているのだ。

そんなふうに考えると、「普通」とは何なのかそれに対する「自分らしさ」みたいなものは何なのか、わからなくなってくる。

わたしって何なんだろう。
ついにはそんなことまで考えはじめてしまう。ちょっと怖い作品だ。

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