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「姫」の思い出【0〜5歳】

※今回は0〜5歳頃にあった印象的な出来事を紹介します。


印象的な出来事


クッキーをあげたかっただけ


母と姉妹でクッキーを作りました。
姉妹はほぼ型抜きしただけですが、動物やハートや星、様々な型があって楽しかったです。
珍しく穏やかで心地良い時間でした。

綺麗に焼き上がって、ワクワクも最高潮。
美味しそうだね! とはしゃいでいると、
外の用事を済ませた父が帰って来ました。
母が「お父さんにあげてきたら」と姉を促しました。
姉は平皿いっぱいにクッキーを乗せて、父へお披露目に行きました。

父は喜んで

「お! 美味そうだな!」

と、平皿からクッキーを選び取りました。
すると姉が

「それ、私の!」

と、言いました。

「私が作ったの」「私が型抜きしたの」
と言いたかったのだと思います。
自分が作ったものを選んでもらえて、嬉しかったのではないでしょうか。
当時、姉は5歳でした。
興奮した5歳児の語彙力なんてこんなもんです。
その発言に対し父は一変、大激怒して

「何だ! くれるんじゃないのか!
もういい! 要らない!!」


と怒鳴りつけ、去って行きました。
残された姉は外で1人、シクシクと泣きました。

さっきまで、あんなに楽しく賑やかだったのが嘘の様に静まり返って、姉の啜り泣く声だけが台所に響きました。
クッキーの味は覚えていません。



父の替え歌


父は私に因んだ替え歌をよく歌っていました。
私はそれが何だかとても嫌でした。
暗く湿っぽいメロディで、歌詞の内容も意味深で、子ども心に不吉なものだと感じ取っていました。
父が毎日あんまりしつこく歌うので、ある時、
その歌は何なのか、どう言う意味の歌詞なのか、
父に直接尋ねてみました。

「"かおるちゃん”という人はクロッカスという花が好きだったんだけど、死んでしまうんだ。
これは葬式の歌だよ。」


と、父は平然と答えました。

私は言葉を失いました。
「葬式の歌」と解釈する楽曲にわざわざ娘の名前を当て嵌めて歌っていたのですから、流石に当惑しました。
父はニヤニヤしながら歌い続けます。

"りさこちゃん" 遅くなって ごめんね
"りさこちゃん" 遅くなって ごめんね
君が好きだったクロッカスの花を
僕は探していたんだよ

私は気分が悪くなって
「やめて」
と言いましたが、父は繰り返し何度も何度も楽しそうに歌うのでした。

後に、私の名前の由来と意味を知って吐き気を催しました。

今でも私の頭の中に流れてきます。
父の声で、ニヤついた声で、
「花は遅かった」の替え歌が、
こびりついて消えません。



どっち?


私が5歳の頃だったと思います。
庭で除草作業をしている母を呼びました。

「おかぁーーーさぁーーん!!」

無視されました。

聞こえなかったのかも、と思い再び、大声で呼びました。
三度四度呼んでようやく、こちらに来ました。
すると、

「どっち?」

と聞かれました。
私には何のことか分かりません。
母は続けて言いました。

「"おかあさん" 2人いるでしょ。
私と、〇〇〇(祖母の名前)おかあさん。」

私は困惑しました。
私の"おかあさん"、つまり母親は目の前にいる唯一1人なのですから。
祖母は"おばあちゃん"でしかありません。
そもそも祖母を"おかあさん"と呼ぶのは母だけです。
その祖母も庭で作業していましたが、私の呼びかけには全く反応していません。

「"おかあさん"はお母さんでしょ?」

としか答えようがありません。
母は「そう……。」とだけ返しました。


後に母が
「姫ちゃんがお婆ちゃんに懐いちゃって悔しかった。
あーあ、盗られちゃったなぁ、と思った。」
と語ったとき、合点がいったのです。
なるほど、

「お前の母親はどっちだ?」

と言いたかったのですね。
子どもに聞くことではないですね。



姉の理不尽


姉には散々意地悪されてきましたが、
幼児期は叩かれたり無理矢理キスされたりと直接的かつ原始的なものでしたが、姉が成長するにつれ言葉での攻撃が主になりました。
「うざい」
「うるさい」
「邪魔」
「ぶりっ子」
「ブス」

特に「ぶりっ子」は散々言われましたね。
私は普通に過ごしてただけなんですけどね。

後に姉はこう語りました。

「お前、昔は天真爛漫でアホの子で可愛いかったんだよ?
それがどうしてか、こうなっちゃったんだね。」

いや、貴女、ぶりっ子ヤメロってどつき回してましたよね?
イジメの首謀者でしたよね??

「どの口が」

と怒りが湧き上がりましたが、言葉にはなりませんでした。
今更、言っても仕方がないことだと思ってしまったのです。
姉は両親に顔面差別されていた被害者でもありますし。
我ながら損な性格だと思います。
でも私は忘れてませんからね。


姉が小学校に上がると、趣向が変わってきました。
例えば、紙に小さな長方形(5mm×20mmくらいの)をたくさん書いて

「学校にあがったら、こういうマスに名前を書かなきゃいけないんだよ」

と、平仮名で自分の名前がやっと書けるようになった私に書くよう押し付けるのです。
まあ、書けません。
今の私でも先の太くて柔らかい2B鉛筆で書けるか、正直怪しいです。
少なくとも5〜6歳児には難題でした。
当時の私も「いや無理だろ」と思いつつも、純粋で柔らかな幼児なので、姉の言葉を真に受けてしまうんですよ。
そして出来ないとみるや、姉は私を馬鹿にするんですよね。
「こんなこともできないの」と。

今にして思えば、私の自信の無さや勉強嫌いの根幹はおそらくここですね。

両親と祖母にも嫌な目に遭わされてきましたが、
姉は逐一、1番近い距離で、的確にネガティブな行動を私にぶつけてきました。

しかし、成人してこうも思いついたのです。
小さな長方形に名前を書かせるヤツ、彼女なりの姉心だったのでは?
と。
年長者が年少者の面倒を見ようという世話心の一環で、善意から、本気でやろうとしていたのでは?
という考えが浮かんだのです。
当時、彼女もただの子どもです。
有り得なくはないなと思い、何かの話の流れでさり気なく言ってみました。

「昔、紙にこんな小さい長方形たくさん書いて、"ここに名前書いてみろ"って言ったの覚えてる?
私は幼心に"馬鹿言うな"とか"理不尽だなぁ"って思ったよ。」


すると姉は

「うそ……。私、そんなことしてたの……?」

と、衝撃を受けていました。

そうです。
悪意でなければ、ただのトンチキ行為です。
結局、あれらが何だったのかは分かりません。
加害者は己の加害行為を忘れる(無自覚である)ので忘れてしまったのか、良かれと思ってやったことだが大昔過ぎて忘れてしまったのか、とぼけているのか。
おそらく半々。意地悪したい気持ちと面倒みてやろうという善意からの行動だったと思います。思いたいです。
しかし、当時の私には全てが理不尽でストレスだったのは事実です。


ピアノ教室


ほんの少しの期間、ピアノ教室に通っていました。
先に姉が通っていて、姉の強い誘いを断れなくて私も習うことになったのです。
しかし、私には何のモチベーションもありませんし、向上心をいまいち持てずにいました。
先生の指導を一生懸命聞いて、何とか一曲弾き通しても、正直楽しくありません。本当に向いてなかったのだと思います。

バイエルを終了した途端に難しくなってしまって、覚えの悪い私の手を、先生がパシリと叩きました。
私は凄くショックで、その日はもう口が聞けませんでした。

翌週、もうピアノ教室に行きたくありません。
しかし、両親にどう伝えたらいいか分かりません。
そもそも私の意見が通ると思えません。有無を言わさず却下されるのが目に見えていました。

私は考えました。

言葉で通じないのなら行動で示そうと思いつきました。

私は押入れに籠城し、泣きました。
親が気付くまで、とにかく泣きました。
情に訴えかける戦法です。
先生の長くてしなやか手指で叩かれた感触を思い出せば自然と涙が出ました。
夕方になり、薄暗くなってきた頃、両親が押入れで泣く私を見つけました。
そして、ピアノ教室に行きたくないと涙ながらに訴えました。
私の願いは聞き入られました。

今思うと、意外とこの頃の私は強かで狡賢かったですね。行動力もありました。
しかし、この行動が両親の過保護と甘やかしを加速させる要因となってしまったのだと思います。
ますますストレスを自己処理できない構造が強化される結果となってしまいました。

しかし、10代の私に、せめてこのくらいの機転と行動力があれば良かったのにと、複雑な気持ちになります。
4歳の私が人生で1番賢かったかもしれません。

姉のついでとはいえ、挑戦の機会を与えてくれた両親には感謝しています。
私にそもそもの目的意識がなく、芽生えることもなく、ミスマッチだったのが残念で、申し訳ないです。
結局、姉も長くは続かなかったので、姉妹には向いていなかったのでしょう。

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